「警察が車の違反を測るヤツを…」 スピードガン導入の契機、衝撃の“幻の160キロ”

元中日の小松辰雄氏【写真:共同通信社】
元中日の小松辰雄氏【写真:共同通信社】

元中日エース・小松辰雄氏が投じた“元祖スピードボール”

 今では当たり前のように存在する、球速を測るスピードガン。ロッテ・佐々木朗希投手らの剛速球のレベルもそこで出た数字がひとつの指針になっているが、昔はそんなものなどなかった。ひとりの投手のすさまじいスピードボールが「いったい、どれくらいの速さなのだろう」と興味を持たせたことで、機械導入につながった。元中日の小松辰雄氏。“スピードガンの申し子”と言われたドラゴンズの大エースの野球人生をクローズアップする。

 1980年、ナゴヤ球場のレフトスタンド後方に「スピード表示電光掲示板」が設置された。小松氏のスピードボールに注目が集まって、中日の本拠地球場で測定が始まった。「150キロ」が出るたびに球場が沸いた。「プロ3年目だったけど、あの年はスピードガンと勝負している感じだった。1球投げるたびに、後ろを見てたからね」。自身がそこまで意識してしまうほどのブレークぶりだった。

 高卒2年目で抑えを任されて、球の速さがより目立ち始めた。「あの頃はとにかく速い、速いってばかり言われた。それが何キロだ、になって測ったと思う。本当かどうか知らないけど、最初は警察が車のスピード違反を測るヤツを使ったんじゃないかって言われていたよ」。そこで出た数字が「150」。それも話題になって、ついに本拠地にスピード表示がスタートするまでになったわけだ。

「スピードガンの申し子」が代名詞で、球速「150キロ」が売りだった小松氏だが、実際はもっと速かったのではないか、とも言われている。「浅尾(拓也)とか福谷(浩司)とかが157キロを出していたけど、あいつらよりは速かったんじゃないかと思うけどねぇ。今と昔では機械も違うしね、まぁ、どうでもいいけど……」。それこそ、速い時は、もしかしたら160キロくらい出ていたかもしれない? まさに驚異のストレートだった。

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