「いらねぇって言われた気分」 引き際を意識した無情な一撃…“演技”続けた男の終焉

元中日・鹿島忠氏【写真:本人提供】
元中日・鹿島忠氏【写真:本人提供】

鹿島忠氏は1996年を限りに現役引退…第2次星野政権1年目だった

 最後は敵地・東京ドームでの巨人戦だった。元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏はプロ14年目の1996年シーズン限りで現役を引退した。恩師である星野仙一監督の第2期政権の1年目だった。厳しい内角攻めを駆使して、中日の中継ぎエースとして活躍してきたが、この年は6月中旬から2軍暮らしが続き、球団フロントから構想外を告げられた。他球団に移籍しての現役続行も含めて「かなり揺れた」という。

 星野監督の第1期政権(1987年~1991年)からリリーフとしてフル回転してきた鹿島氏は、1992年からの高木守道監督時代も同じ立場でチームに貢献した。11年目の1993年には自己最多の57登板(3勝5敗2セーブ)。だが、やはり体にはどこか無理をさせていたようだ。星野監督が戻ってきた1996年シーズン、6月15日の広島戦(広島)で4回途中から2番手で登板したが、1/3回を2失点で降板。打者3人で2安打、広島・野村謙二郎内野手に一発を浴びた。

「野村に打たれたのは覚えているよ。なんや、あのカーブって感じの球をカパーンってね。いらねぇって言われているような気分だった」。これで2軍落ちとなった。「真っ直ぐも変化球もブルペンではそこそこ投げられるけど、そのままの調子が出るのか、出ないのか、マウンドに行ってみないとわからなかった。あっ、今日は行ってないなとか、今日はいけてるとかさ。そんなピッチャーを使うかって話だよね。そんなピッチャーはいらないよね」。

 それでも何とかして巻き返そうと考えて、2軍でも一生懸命、練習に取り組んだという。だが、1軍から声はかからず「9月の終わりだったか、10月の頭だったかに球団から呼ばれた。『来年からナゴヤドームができるのでチームを一新する。来年は契約しない。他でやりたいんだったら聞いてやるし、今だったらテレビ局もラジオ局も新聞も受け入れる。どうする』と言われた」。即答はせず「考えさせてください」と言ったそうだ。

中日でリリーフ投手として活躍した鹿島忠氏【写真:山口真司】
中日でリリーフ投手として活躍した鹿島忠氏【写真:山口真司】

最後のマウンドは東京ドーム…高校時代にしのぎを削った岡崎郁と対戦した

「やっぱりそうかとは思ったけど、かなり揺れたよ。いつまでたっても現役でいたいもんだからね。そりゃあ、どこかでピリオドは打たなければいけないんだけど、あと2、3年はよそでできないこともないだろうと思ったし……」。しかし、最終的には引退を決断した。「よそに行って、その後の仕事があるかも考えた。今ならテレビなどの仕事があって食いっぱぐれることはない。そんなこともやはり……」。現役にしがみつきたい気持ちを懸命に振り切った。

「『やめます』って返事をしたら『東京ドームに行け、仙さんが呼んでいるから』と言われた」。1996年10月8日の巨人戦(東京ドーム)が鹿島氏の現役最後の舞台となった。1-4の8回裏1死から登板した。「打倒・巨人」に燃え続けた右腕にとって思い出深い敵地のマウンドだった。2/3イニング、打者2人を封じて無失点。鹿児島実2年の秋の九州大会準々決勝で敗れて、選抜出場を逃した時の相手だった大分商出身の巨人・岡崎郁内野手との対戦で現役生活の幕を閉じた。

「岡崎も、その日で引退だったんだよね。お前も終わるのって思ったよ。選抜を争った相手だったからねぇ。まぁ、それも縁だったね」。鹿島氏の通算成績は405試合に登板し、36勝28敗14セーブ、防御率3.95。厳しい内角攻めを駆使するために、相手から怖がられるように演技した。帽子を目深にかぶり、ふてぶてしい態度を見せたり、怖い男のイメージをつくったが、笑みを浮かべながらこうも話した。

「俺は、仙さんも演技していたと思うよ。だってグラウンドと普段とではだいぶ違ったでしょ。怖い時は怖いけど、基本はそうじゃない。俺も師匠の真似をしていただけですよ」。35歳で終わったドラゴンズ一筋の現役時代。鹿島氏は中日の貴重な中継ぎ右腕として名を残した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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