参入問題の渦中に告げられた「ウチに決まりなんで」 “既定路線”で決まった楽天コーチ

元中日・鹿島忠氏【写真:山口真司】
元中日・鹿島忠氏【写真:山口真司】

鹿島忠氏は2005年から2年間楽天で投手コーチ…同級生の牛島監督からの誘いを断った

 あの名将の野球に触れることができた。元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏は2005年、誕生したばかりの楽天で2軍投手コーチを務めた。野村克也氏が監督に就任した翌2006年は1軍投手コーチとなり、やりくりした。「試合中は野村さんの横にずっといた。選手交代、駆け引きなど、いろいろ勉強になった」。実は2005年オフに他球団から誘いがあった。それを断って、野村野球を学んだ。

 楽天への入閣は降って湧いたように決まった。「(初代監督の)田尾(安志)さんが俺の名前を挙げてくれたのかもしれないけど、当時の球団代表(米田純氏)から突然、電話がかかってきて『お会いできますか』って言われて、名古屋で会った。そしたら『ライブドアとウチと今やってますけど(新球団は)もうウチに決まりなんで、コーチをお願いします』って。びっくりしたよ」。山形が本拠地の楽天2軍投手コーチにという話だった。

 それまでは中日一筋。鹿島氏にとって山形は縁もゆかりもない場所だったが、それほど迷うこともなく、新天地に飛び込むことを決意した。やれることは全力で取り組み、選手を指導した。1軍は首位から47ゲーム差の最下位に沈んだが、2軍はイースタン・リーグ4位、チーム防御率はリーグ2位と健闘した。

 1軍監督だった田尾氏は解任され、野村氏が監督に就任することが決まった。鹿島氏は野村体制で1軍投手コーチを任されることになった。山形から1軍本拠地の仙台に引っ越したが、実はその間に横浜から投手コーチとしての誘いがあった。同い年で中日時代から旧知の仲の牛島和彦氏が2005年から横浜の監督を務めており、監督2年目のシーズンに向けて「牛から電話がきて『手伝ってくれないか』って言われた」という。

「一番仲が良かったのが牛だからね。飯も酒もよく一緒に行った。牛がトレードでロッテに行くまではほとんど一緒にいた。牛はタニマチをつくらないから、全部、自分の金で払う。いろんなところに連れて行ってもらった。それを見て俺も絶対、自分の金で下のもんを連れていこうって思ったもんだよ」。そんな友からの誘い。2つ返事でOKするところだったが、断った。その理由が野村監督の存在だった。

「ごめん、牛。俺、キャッチャー出身の監督と1回もやったことがないし、野村さんがどんな考えをしているのか、聞いてみたいし、経験してみたいんだ。頼むから1年だけ待ってくれないか」。鹿島氏は牛島氏にそう伝えたそうだ。

「楽天・野村」1年目で投手コーチ…今に生きる理論武装

 野村監督の下で勉強した。試合中はいつも監督の隣にいた。「野村さんはずーっとブツブツ言っているけど、人に問いかけている時と、本当に独り言の時がある。オープン戦の頃はそれが分からなくて、いつも黙って聞いていた。そうしたらミーティングで『ウチのコーチは誰も答えてくれない』って。それからはヘッドコーチの松本(匡史)さんと2人して、ああです、こうですとずっと答えるようになった」。そうすることが野村監督の考えを学ぶことにもつながった。

「ボードがあって、そこに2週間分くらいの対戦相手、球場、そして先発ピッチャーの名前が書いてある。その2週間分くらいを説明しないといけなかった。今日はこういう理由で彼を先発させます。明日は彼、あさっては……という感じでね。中継ぎも今日は誰と誰を何回から何回まで用意します。それを過ぎたら、次はこっちにチェンジします。そして最後はこいつで、って。すべてに関して監督から『なんでや』と言われるから、それもちゃんと説明しなければならなかった」

 そうした“作業”が毎日続いた。状況が変わらない限り、1日経過しただけで、内容は繰り返しがほとんど。「毎日同じことを言った。毎日、同じことを聞くから同じことを答えた。あえてそう言わせていたと思う。野村さんは常々『根拠がないことは、やるな』って言っていた。こうしたいのはなぜだ、なんでこいつを使うんだ、ってね。そういう話をしていると1時間は軽く過ぎていく。『すみません。そろそろ練習が始まりますのでグラウンドに行ってきます』と言って終わるのが毎日だった」

 試合中の投手交代では必ず2人の候補を用意した。「『どっちや』って言われて『そうですねぇ、こっちじゃないですかねぇ』」と答えると、大抵、逆の方を使われたそうだが……。「俺はまだ野村さんとコミュケーションを取っていた方だと思う。昔の野村さんを知っているコーチもいたから、彼らはビビっていた感じだったけど、俺はまるっきり初めてだったし、ズケズケとものを言っていた。だってあの星野さんの下でやっていたから、ビビる監督なんていないしね」。

 2006年シーズンの楽天は首位から33ゲーム差の最下位。鹿島氏はこの1年を終えたところでお役御免となった。「1年待って」と頼んだ牛島・横浜も2006年で終わり、こちらの投手コーチ就任の話もなくなった。だが、野村野球を経験できたことは何よりも大きな財産だ。現在、母校の鹿児島実の臨時コーチも務める鹿島氏は野村氏の教え通り、根拠を持って後輩たちを指導している。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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