「来年はまた1軍で」の約束も “落合体制”への移行で水の泡…弾き出されたコーチ

元中日・鹿島忠氏【写真:山口真司】
元中日・鹿島忠氏【写真:山口真司】

鹿島忠氏は2001年から3年間、中日の投手コーチを務めた

 コーチ業の難しさを知った。元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏は2001年から2003年まで中日投手コーチを務めた。1年目は1軍ブルペン、2年目は1軍のメイン、3年目は2軍サブ担当と毎年、立場は変わったが、とても勉強になったという。「3年目は1か月間、アメリカに外国人投手の調査にも行かせてもらったからね」。もっとも、この時の調査が中日球団の補強に生かされることはなかった。「帰国後、調査書は出さなくていいと言われた」からだ。

 2001年シーズン、鹿島氏は恩師の星野仙一監督の下で1軍ブルペン担当として初めてコーチ業に就いた。メインの1軍投手コーチは山田久志氏だった。「仙さんはピッチャーのことは山田さんに任せていた。誰を出すのかも全部山田さんが決めていた」。2002年から、その山田氏が監督になり、鹿島氏はメインの1軍投手コーチになった。「仙さんの時に山田さんがやっていたように、任せるからやれって言われた」。

 しかし、鹿島氏はまだ2年目のコーチ。経験豊富な山田氏と同じようにこなすことは容易ではなかった。「責任を取るのは監督。チョイスするのは俺。うまくいかなかったら山田さんに迷惑がかかるから、大変だった。難しかった。先発ローテーションを決めて、これでいいですかと、おうかがいにはいく。そこでは、こうじゃないか、ああじゃないかとなるんだけど、ゲーム中は任されていたので……」。

 リリーフ投手が打たれるシーンも目立ち、だんだん山田監督も鹿島氏に任せたくても任せられない状況になっていったという。「最初の頃は『ここは岩瀬(に交代)じゃないのか』と言われても『いや、ここはこのまま行きます』って言っていたけど、それがガーンって打たれてしまうと『我慢してください』とは言えなくなってしまった。まだわかっていなかった。コーチ勉強が浅かった」。翌2003年は2軍に配置転換となった。

2003年途中から外国人調査で渡米…体制一新で水の泡に

「駄目だって烙印を押されて2軍ではサブの投手コーチ。2軍のメインの投手コーチは都(裕次郎)さんだった。しょうがないと思った」。もう一度、やり直すつもりで取り組んだ。そんな中、外国人調査でアメリカに1か月行くことになった。「山田さんには『いい投手を探してくれよ。来年はまた1軍でやってくれ』と言われた。向こうでは3Aを中心に見た。何人か、目星をつけたよ」。すべては翌年のため。今度こそ投手コーチとして結果を出すつもりで日本に戻ったのだが……。

 その流れはなくなった。山田監督がシーズン中の9月に解任され、翌シーズンから落合博満氏が監督に。体制が一新されることになり、すべてがゼロになった。「球団からは外国人調査の報告書もいらないと言われた。今年でお前もクビだから、みたいな感じだった」。実際、退任することも決まり、むなしい気持ちにもなった。

「でも、アメリカに行かせてもらって、良かったと思っているよ。その時が初めてのアメリカ本土だったしね。現役の時、ベロビーチとピオリアで1軍キャンプがあったけど、ベロビーチの時は行く2日前に風邪を引いてメンバーから外された。ピオリアの時は(監督の高木)守道さんに『若いのを連れていきたいから、鹿島は日本に残って』って言われて行けなかったし……」

 外国人調査の旅もいい勉強にもなった。「あの時、俺がリストアップしていたピッチャーを広島が獲ったんだよねぇ……。もう20年も前になるんだね」。わずか3年間の中日コーチ時代ながら、鹿島氏にはいろんなことを一気に経験させてもらった貴重な期間だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY