監督から「やめろ」 マウンドで“くちゃくちゃ”に抗議殺到…取り上げられた役作り

元中日・鹿島忠氏【写真:山口真司】
元中日・鹿島忠氏【写真:山口真司】

星野仙一監督の下で活躍した鹿島忠氏、新体制で思わぬ“物言い”が…

 元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏はプロ5年目の1987年シーズン途中にリリーフに完全転向したが、そこから1996年の引退までにたった1度だけ先発したことがある。阪神が亀山努外野手、新庄剛志外野手の“亀新フィーバー”で盛り上がり、ヤクルトと激烈な優勝争いをした1992年シーズンだ。「10月の阪神戦に先発して2イニングを投げた。阪神にとっては大事な試合だったんだけど中日が1-0で勝ったんだよね」。鹿島氏はその試合に志願して先発したという。

 厳しい内角攻めを駆使して、鹿島氏は中日中継ぎ陣のエース格として活躍した。プロ6年目の1988年は44登板で3勝2敗の成績でリーグ優勝に貢献。7年目の1989年は54登板で9勝3敗、8年目の1990年も45登板で7勝4敗と結果を出し続けた。星野仙一監督率いる中日の旗印は「打倒・巨人」。鹿島氏はその巨人戦に滅法強く「1点もとられなかったシーズンもあった」ほどだ。

 第1期星野中日の最後の年でもあった9年目の1991年は「勤続疲労で調子を落としてしまった」と19登板に終わったが、高木守道氏が監督に就任した10年目の1992年は3勝1敗6セーブと復活した。体制が変わって変化したのはガムをかまなくなったこと。内角攻めを有効にするため、マウンド上では怖い男のイメージ作りさえやっていた鹿島氏は、その一環でガムをかんでいた。それを高木監督に「やめろ」と言われたという。

「何でですかって聞いたら『球団事務所に抗議の電話がかかっているから』と言われた。『くちゃくちゃして何だあいつは』って言われていたそうだ。だから、ガムはやめることにした。実は星野監督の時もそんな電話は多かったらしい。仙さんはそれを知っていたけど、一切俺には何も言わなかったんだよ。でも守道さんはそうはいかなかったね」。そんなシーズンの最終戦、10月9日の阪神戦(ナゴヤ球場)で鹿島氏に先発機会が巡ってきた。

優勝が懸かった一戦に阪神はガチガチ…「内角攻めしなくても抑えられた」

 この年、中日はリーグ最下位。もう完全に消化試合ということもあって鹿島氏が「先発で投げさせてほしい」と首脳陣に頼んだ。「たまには一番きれいなマウンドで投げたいと思ったんだよね。それにはホームゲームじゃないと、できないでしょ。ビジターだったら、先に相手ピッチャーが投げて穴を掘っているから。それでお願いした」。

 相手の阪神はこの時点で首位ヤクルトと1ゲーム差の2位で残りは3試合。その日の中日戦の後には甲子園球場でのヤクルト戦が2試合控えていた。「打順が俺に回るまで投げさせてくださいと言って、先発して2イニングを投げたけど、阪神打線はガチガチだったね。厳しい内角攻めはしなくても抑えられたからね」。

 1987年4月25日の大洋戦(横浜)以来の鹿島氏の先発は2回無失点。中日はその後、山本昌広投手、山田喜久夫投手、今中慎二投手、与田剛投手とつないで、前原博之内野手のソロアーチによる1点を守り切った。阪神にとっては痛恨の黒星で、10月9日のヤクルトとの直接対決第1ラウンドに負けて、最終戦の第2ラウンド前にV逸となった。

 その後の鹿島氏は引退するまで、リリーフでしか登板していない。結果的に、その阪神戦が現役生活で最後の先発マウンドにもなった。「別にその時はそれで現役が終わったわけじゃないから、何も意識していなかったけどね」と話すが、阪神の気の毒なくらいのガチガチムードは印象に残っているそうだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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