甲子園で痛恨牽制死「野球辞める」 逃したサヨナラ…「大変だった」“事後処理”|球界群像 太田幸司#8

元近鉄・太田幸司氏【写真:山口真司】 元近鉄・太田幸司氏【写真:山口真司】 

三沢高を牽引した太田幸司氏が振り返る甲子園

 青森県立三沢高のエースだった太田幸司氏(元近鉄、巨人、阪神、野球評論家)は1969年夏の甲子園準優勝右腕だ。延長18回0-0再試合となった松山商との決勝戦は伝説だが、その夏に向かうまでには試練もあった。春の東北大会でまさかの1回戦負けを喫して「あれで引き締まりました」。当時日大4年だった佐藤道郎投手(元南海、大洋)の指導も受け、気合を入れ直したという。

 1969年春の選抜に出場した三沢高は2回戦で敗退した。浪商と延長15回の激闘を繰り広げたが、2-4で涙をのんだ。太田氏は「サヨナラでウチが勝てるチャンスはあったんですよ。満塁かなんかで小比類巻(英秋捕手)がセカンドランナー。1点取ればいいので、セカンドランナーは関係ない。サードランナーさえ還れば勝ちってところで、ちょろちょろちょろって、小比類巻が牽制でタッチアウトを食らって、結局その回ゼロで終わって……」と振り返る。

「大阪代表の浪商と互角に渡り合えたんで、自信というか、手応えをつかみました。でも小比類巻は負けたことに責任を感じて、試合が終わった後、『野球を辞める』って言い出してね、大変でした。何とかなだめましたけどね」。春の選抜でマスクを被った主将の河村真捕手が椎間板ヘルニアで離脱、以降、太田氏はこの小比類巻捕手とバッテリーを組んで伝説の夏を戦ったが、それは、そんな“騒動”を経てのことでもあったわけだ。

 さらにチームにとってショックだったのが、春の東北大会1回戦で仙台工に0-2で敗れたことだった。「下馬評も“三沢高校のための東北大会、もう負ける相手はいない”と言われていたし、僕らも当然、負ける気はなかった、それが1回戦ですよ。今の楽天本拠地の宮城球場で……。仙台での開催だったので、宮城県からは3チームが出ていて、仙台工は宮城の優勝チームでもなかった。だから、もう左うちわで勝てるだろうと思っていたら、あれあれって感じで……」。

 前年(1968年)秋以降で、東北地区の学校に初めて負けた試合だった。油断があったし、調子に乗っていた。「ちょっと気が緩んでいました。負けた時は悔しかったけど、あれでまたチームがまとまったというか、ふんどしを締め直して夏に行こうぜって、また違うテンションになって……。振り返ってみれば、いい薬でした。ある意味、負けてよかったのかもしれない。高校野球って何があるかわからない。そういうことも経験できたのでね」。

 それまで、ほぼストレート1本で勝負していた太田氏は最後の夏に向けてカーブの練習も本格的に取り組んだという。「青森大会は真っ直ぐだけで行けても、やっぱり甲子園はそうはいかないと思ったのでね」。加えて、三沢ナインは日大の河内忠吾監督や佐藤投手にも指導を受けたという。「当時、三沢は日大とつながりがあって、以前から時々、教えてもらっていたんですけど、最後の夏の時も来ていただいたんですよ」。

後のドラ1右腕から激アツ言葉のオンパレード

 太田氏は1969年のドラフト会議で近鉄に1位指名されて入団するが、日大・佐藤投手も同じ年の南海ドラフト1位で、1970年のプロ1年目からリリーフとして大活躍してパ・リーグ新人王に輝く。そんな4歳年上の大学生右腕から太田氏は何度も気合を注入されたという。「『高校野球は何があるかわからんからな。どんな相手でも絶対手を抜くな! そういう手を抜いた試合をやると次に影響が出るから、とにかく目一杯行け!』とか言われました」。

 激アツな言葉のオンパレードだった。「佐藤さんはよく言っていました。『俺は真っ直ぐでグイグイ押すタイプじゃないけど、ピッチャーは気持ちだぞ! 球に自分の気持ちは絶対乗り移るから、弱気になったら駄目だ! 迷ったら強気で攻めろ!』ってね。そういう精神面のことも、いろいろ話をしてもらいました。最後の夏には、それも大きかったですよ」。太田氏が常に前を向き、ひたすら腕を振り続けたのも、そんな教えを受けたからでもあった。

「佐藤さんに『俺はもう間違いなくドラフトにかかる。多分、お前もかかるだろうから、今度はプロで顔を合わせて頑張ろうぜ』みたいなことを言われたのも覚えています。佐藤さんは体がでっかくてね。で、練習用の上下真っ白のユニホームを『これやるわ』って渡されたんです。『僕にはブカブカですよ』と言ったら『いいじゃないか。これが着れるくらい、デカくなれ』って。今でも、そのユニホーム、大切に持っていますよ」

 選抜後の東北大会1回戦負けのショックから、太田氏も、三沢ナインも気合で立ち直った。誰もが技量もアップさせた。「日大の河内監督からは守備のフォーメーションとか、作戦とか、頭を使う部分も教わりました。それまでは、そんなもの何にも習っていませんでしたからね」。そして1969年高校3年の夏、最後の夏、集大成の夏がやってきた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

球界群像〜太田幸司編〜

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