即戦力のはずが防御率12点台 1年目で知った現実…中日OBから「ケチョンケチョンに」

元中日・米村明氏【写真:山口真司】
元中日・米村明氏【写真:山口真司】

パームを習得し1軍で活躍…米村氏の運命を変えたOBの指摘

 元中日投手の米村明氏は、パームボールを武器に先発でもリリーフでも活躍した。背番号19の左腕が、その球を完全習得したのはプロ2年目(1986年)だ。1年目秋から練習を始め、コツコツと1段階ずつクリアし翌年のシーズン中に自分のものにした。中日の大物OBから「お前の真っ直ぐがプロで通用するわけないだろ!」と厳しく指摘されたことが、習得のきっかけになったそうだ。

 社会人野球・河合楽器から1984年ドラフト5位で中日入りした米村氏だが、プロの世界は甘くなかった。1年目は10登板で0勝0敗、防御率12.60。シーズン後半はずっと2軍暮らしだった。レベル差を痛感し「どうすればいいだろうか」と思案しながら迎えた秋季キャンプで“転機”が訪れた。「確か臨時(投手)コーチで来られていたと思うんですけど、(中日OBの)杉下(茂)さんにケチョンケチョンに言われたんです」。

 杉下氏は1954年に32勝をマークし、「フォークボールの神様」と呼ばれた中日の大エースであり、監督も務めた大物OBだ。米村氏は、そんな偉大な人に「『お前みたいな真っ直ぐがプロで通用するわけねーだろ! サイドスローにしろ!』って言われたんです」と明かす。そして、指示通りにサイドスローの練習を始めたという。「(ストレートの)球速は基本的に137か138くらいでしたからね」。

 加えて取り組んだのが、背番号19の先輩である元新人王右腕・藤沢公也投手が武器にしていたパームボールの習得だった。「僕がサイドスローを練習していると、当時、2軍マネジャーだった福田(功)さん(元中日捕手で中大の先輩)が、『藤沢さんが投げていたような球も覚えてみたらどうだ』と握り方だけ教えてくれたんです」。杉下氏の厳しい指摘をきっかけに変わろうと考えていた矢先だった。「プロで生きていく道はそれしかないと思いました」。

 しかし、簡単に習得とはいかなかった。「パームボールは1メートルから(練習を)始めました。そこでボールが回転していないのを確認できたら、次は2メートルって感じでね。それが18.44メートルまで。だから時間はかかりましたよ」。我慢、忍耐も必要だった。「翌年(1986年)のシーズンに入ってからもやっていました。遠征先でもそう。練習が終わって、試合が終わって、宿舎に帰って、ご飯を食べて、そこから一人でネットを相手にね」。

 プロ2年目、米村氏は6月中旬に1軍に昇格。パームボールを習得できてのことだった。「サイドスローは、1軍に上がる2か月くらい前に、僕には合わないと思ってやめました。でも、サイドをやったことで、腕の使い方を覚えたんです。サイドスローでは肘をうまく出さないとまっすぐにボールが飛んでいかない、普通に投げると絶対シュートするんです。そういうのを覚えたら上投げで球が良くなったんですよ」。

プロ初打席で本塁打「運を使い果たしました」

 実際、米村氏の投球内容は1年目とは違った。2年目の初登板となった6月15日のヤクルト戦(松本)は3番手で2回を投げて、打者6人を無安打3奪三振。安定感が増して1軍の戦力になった。チームは下位に低迷し、山内一弘監督が途中休養。7月6日から高木守道監督代行体制となったなか、中継ぎ左腕として仕事をこなしていった。

 8月23日のヤクルト戦(神宮)では初打席初本塁打&プロ初勝利という“離れ業”も成し遂げた。1-2の7回裏に先発の小松辰雄投手をリリーフ。無失点に抑えると、8回表に中日打線が2点を奪い逆転。8回裏も無失点投球の米村氏は、9回表に回ってきたプロ初打席で阿井英二郎投手からプロ初本塁打を放ち、自らのバットで1点を追加。9回裏もパームボールを駆使して得点を許さず、プロ初勝利も手にした。

「ホームランは真っ直ぐを1、2の3でホイ。レフトへ流し打ちでね。ヤクルトのレフトは(中大先輩の)小川(淳司)さんで『グラブに触ったぞ』って。ギリギリでしたね。初打席、初ヒット、初打点、初ホームラン、初勝利。うれしかったです、それで運を使い果たしましたよ(笑)」。2年目の米村氏は、10月3日の広島戦(広島)でプロ初先発(5回3失点でプロ初黒星)も経験するなど、29登板で1勝1敗、防御率2.21。杉下氏からの厳しい言葉をきっかけに、努力を重ねてプロでの居場所を築いていった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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