過酷な登板続いた「使い捨て」の日々 長嶋一茂に被弾で大目玉「誰に打たれているんだ!」

1988年に中日がリーグ優勝、ブルペンを支えた米村氏
過酷なフル回転だった。元中日左腕の米村明氏はプロ4年目(1988年)に7勝を挙げてリーグ優勝に貢献した。先発でもリリーフでも投げた。武器のパームボール多投が要因で左肘痛に苦しみながら、登板に関わらず、毎日ブルペンで準備していたという。「僕と鹿島(忠投手)はそうです。いつも“作っとけ”ですよ。まぁ、そういう時代でしたけどね」。ある首脳陣からは辛辣な言葉も浴びたが、力を振り絞った。
米村氏にとって1988年は忘れられないシーズンだ。開幕3戦目の4月10日の大洋戦(ナゴヤ球場)でのリリーフを手始めに、30試合に投げて7勝4敗、防御率3.38。星野仙一監督率いる中日のリーグ優勝のために尽力した。「先発ローテーションにも入ったけど、リリーフもやらなければいけない。勝ちゲームとかになったら『おい、米村、行け』ですからね。まぁ、肩を作ったら3万円とかブルペンポイントというのもあったんですけどね」。
コンディションは万全ではなかった。「(武器である)パームボールは肘への負担が大きい」と左肘痛とも闘いながら投げ続けた。「僕と鹿島はブルペンに1回から9回までいるわけですよ。明日先発という時でも9回までいるんですよ。で、なんかあれば『鹿島、米村つくっとけ!』ってなるんです。何回作らせるんだって思いましたけど、当時はそれも当たり前、そういう時代だったんです」。
先発と抑えに比べて、中継ぎの立場がまだ確立されていない頃。いまと違い、酷使も普通にあった。先発をやりながら、中継ぎもこなした米村氏は、とにかく必死だった。首脳陣からは辛辣な言葉で尻も叩かれたという。「『お前らに(ベンチ入り免除の)“上がり”があるわけないやないか。使い捨て、使い捨て。100円ライターや。代わりはいくらでもおるんや』ってね。よくそんなことを言われましたよ」。
1988年の中日は、7月1日の大洋戦(平塚)から7日の巨人戦(札幌円山)まで6連敗を喫した。米村氏は5連敗目の6日の巨人戦(札幌円山)に先発。吉村禎章外野手、原辰徳内野手、呂明賜外野手の3、4、5番に3者連続本塁打を許した。「槙原(寛己投手)が(1985年に)阪神のクリーンアップにバックスクリーン3連発を食らったけど、僕はライト、センター、レフトに打ち分けられました」と苦笑しながら話したが、周囲の目は厳しかったに違いない。