「日本で誰もやっていない」“レア記録”達成も 中日左腕が払った代償「もう限界」

米村氏がプロ4年目に達成したプロ野球史上初の“完封勝利”
元中日左腕の米村明氏は1988年8月3日の大洋戦(ナゴヤ球場)で、プロ野球史上初の毎回被安打での完封勝利を達成した。許した安打は10。2回に2安打されたが、あとの回は1安打ずつで失点しなかった。「自分のテクニックを100%使って投げ切りました」。しかし、得意のパームボールの多投による左肘痛で8月下旬に無念の離脱。チームが優勝を決めた10月に1軍復帰したものの、日本シリーズは登板なしに終わった。
1988年、中日はリーグ優勝を成し遂げた。指揮官は当時41歳で血気盛んな星野仙一氏だった。7月1日から6連敗を喫したが、7月はそこから12勝1敗。8月も15勝5敗3分と勢いにのった。その間、米村氏も先発として活躍。7月31日のヤクルト戦(神宮)では長嶋一茂内野手に一発を浴び1回0/3、3失点で降板。「誰にホームランを打たれているんだ! このボケぇ!」と若き闘将に大目玉を食らったが、そこから中2日の先発登板で巻き返した。
それが8月3日の大洋戦。史上初の毎回被安打での完封勝利をやってのけた試合だ。「あの時は『(抑え投手の郭)源治が今日は風邪で投げられないから、お前が全部投げろ』と言われたんです。で、8回が終わって、そういえば3者凡退がないなって思った。そしたら9回、確か最初のバッターにヒットを打たれて……」。毎回被安打に記者席もざわついたなか、米村氏はきっちり後続を断って記録を達成した。スコアは4-0だった。
「(大洋内野手の)池之上(格)さんがスリーバントを失敗したり、ゲッツーも確か3つくらいあったはずなんですよ。忘れもしないです。あれは自分の中で究極の投球だったと思います。打たれてもヒットだったらいいじゃないかと思っていたのでね。僕のリリーフのモットーは、フライを打たれたら駄目で、ゴロでレフト前、センター前、ライト前はOK。それが(1回から9回まで)できた唯一の試合だった。自分のテクニックを100%使って投げ切りました」
中日打線が10安打で4点を取ったなか、米村氏も大洋打線に同じく10安打を許した。5番のジェームズ・パチョレック外野手には、2塁打2本を含む3安打を浴びたが、得点は与えず。奪三振は6で、与四球は3だった。「日本で誰もやっていない」と胸を張る毎回被安打の完封劇は、粘りに粘り、要所を締めたからこそできたものだ。「僕が自慢できるのはあの試合くらいですよ」と笑みを浮かべながら振り返った。
怪我に苦しんだ後半戦…リーグ優勝に貢献も日本シリーズは登板なし
しかし、その快挙によって手にした7勝目が、その年のラスト勝利となった。8月はその後、3試合に先発したが、いずれも5回持たずにKOされた。先発、リリーフにフル回転し、登板がない時もブルペンで準備するなど、無理を重ねた上に、得意のパームボール多投で負担がかかっていた左肘がとうとう悲鳴を上げ、8月下旬に戦列を離れた。「もう限界でした」。それでも治療などで、また試合で投げられるところまでシーズン中に回復させたのだが……。
中日は10月7日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)でリーグ優勝決定。米村氏は歓喜の胴上げに参加し、その後、1軍復帰登板も果たした。だが、本来の姿からはほど遠く、1勝4敗で西武に敗れた日本シリーズは登板なしに終わった。「ブルペンでは準備していましたよ。肘? (日本シリーズの)その時は関係なかったです。『痛い』と言っても『用意しとけ』でしたから。でも、西武は強かったですね」。
プロ4年目の1988年、米村氏は30試合に登板。そのうち先発は12試合だった。シーズン成績は7勝4敗で防御率3.38。ほとんどが8月までに残した数字だった。「あの年は杉本(正投手)、近藤(真一投手)に僕と3人の左投手が途中で怪我しましたからね。で、山本昌(投手)が(ドジャース留学から)帰国させられて、5勝したのかな。それからあれだけのピッチャーになりましたもんね。僕らが怪我したおかげですかね(笑)」。
史上初の記録も作り、優勝を味わい、オーストラリアV旅行も経験するなど、うれしい思い出もいっぱいできたが、苦しい思い出も同じくらいあったシーズンだった。「今だから、よくやったなって思いますけど、やっぱり(ブルペンも含めて)あれだけ投げたら駄目でしたよね」と米村氏は複雑な表情を浮かべた。それは左肘痛との闘いが、翌1989年以降も続くことになったからだろう。さらなる試練の日々が左腕を待ち受けていた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)