ベンチの扇風機を「バーン」 中日指揮官から“脅迫”…逆らえなかった命令、巨人主砲から怒りの目

元中日・米村明氏【写真:山口真司】
元中日・米村明氏【写真:山口真司】

元中日の米村氏がオーストラリアキャンプで披露した“大ヒット曲”

 左肘痛と闘いながら、懸命に投げたが……。元中日投手の米村明氏はプロ5年目の1989年、25登板(5先発)で2勝2敗、防御率6.57の成績に終わった。シーズン初登板の4月20日の巨人戦(ナゴヤ球場)は先発で起用されたが、2回3失点で敗戦投手。その後は中継ぎでの登板がメインになった。当時の“星野ドラゴンズ”は、厳しい内角攻めが当たり前の“ケンカ野球”が看板のひとつ。「(巨人の)原(辰徳)さんににらまれたこともありました」と振り返った。

 1989年から中日はオーストラリア・ゴールドコーストキャンプをスタート。炎天下の中、パームメドウズGCの敷地内に作られた「パームメドウズ球場」で、ナインは汗を飛び散らせながら練習に励んだ。米村氏はそのキャンプのスポンサーでもあった大京の横山修二社長に“歌芸”で気に入られたという。「キャンプ中に食事会というかパーティーがあって、そこで『セクシャルバイオレットNO1』を歌ってウケたんです」。

 これには星野仙一監督も目を細めていた。歌手・桑名正博さんの大ヒット曲でグラウンド外の“つかみ”はOKだったようだが、野球の方は順調ではなかった。最大の武器であるパームボールの多投によって痛めた左肘の状態が万全ではなかった。少々の痛みは我慢して、オーストラリア1次キャンプ、沖縄2次キャンプ、オープン戦とクリアしていったが、常に危険と隣り合わせだった。

 シーズン初登板(4月20日、巨人戦)は先発だったが、2回3失点でKOされた。その後、4月28日と30日の巨人戦(東京ドーム)にリリーフ登板したが、結果を残せず再調整となった。それから1か月後の5月31日の広島戦(広島)で復帰登板。4番手で1回無失点に切り抜けてから中継ぎとして起用され続けた。そのほとんどが負け展開でのマウンド。3連投もあったが、与えられたポジションで懸命に投げた。

“星野ケンカ野球”では不可欠の厳しい内角攻めも行ったという。「やらなかったら、ベンチで扇風機とかをバーンですからね。怒鳴られる時は星野さんの顔がもう目の前にあるんですよ。その距離で『お前な、ちょっと1軍でやったと思って、偉そうにしとったら、ぶちのめされるぞ!』って言われたこともありました。もう背筋がパリっとなりましたけどね」。闘争心を植えつけられ、精神面も鍛えられながら、投げ続けたわけだ。

「1回だけ原さんの顔面付近にいったことがあるんです」

「(当時、1軍外野守備走塁コーチの)島野(育夫)さんがね、革の手袋をしだすんですよ。で、スパイクを履き出すんですよ。そうすると『おい、出るぞ(厳しい内角攻めの)サインが』って。僕ね、1回だけ(巨人の)原さんの顔面付近にいったことがあるんですよ。踏み込んでこられて当たりそうになったんです。その時は“俺は悪くない”と思っていましたけど、えらい、にらまれました。今、考えたら、やっちゃいけないことだったと思いますけどね」

 1989年の米村氏は、8月中旬から再び先発でも起用されるようになり、8月24日の阪神戦(ナゴヤ球場)では6回2/3、1失点の好投でシーズン初勝利を挙げた。そして9月11日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)では3番手で登板し、2回無失点で2勝目をマーク。結果的には、それが現役ラスト勝利となった。「その日のことは覚えていないですね。肘は悲鳴を上げていたと思いますけど……」。

 翌1990年は1軍のオーストラリアキャンプメンバーから外れた。「横山さんが『なんで今年は米村君が来ないんだ』って言われていたと聞きました。その次の年(1991年)はオーストラリアメンバーに入って、歌いましたけどね。“セクシャルバイオレットNO1”を」と米村氏は懐かしそうに話したが、左肘の状態がよくなることは……。やれることはやっても、思い通りにいかないことも多かった。現役生活の終わりが近づいていた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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