ドラ1入団も…待っていた衝撃「あ、無理」 キャンプで苦痛だった1時間半、悟った“現実”

阪急にドラ1入団の山沖之彦氏…キャンプは「練習についていくのが精一杯」
衝撃を受けた。長身右腕の山沖之彦氏(元阪急・オリックス、阪神)は専大から1981年ドラフト1位で阪急に入団したが、いきなり「“あ、これは無理”と思った」と話す。1982年1月の自主トレの時点でそう痛感したという。先輩たちのレベルを見てのことではなく、同期の姿を見てのこと。2月の高知キャンプでも練習についていくだけで精一杯だった。もともと肩ができるのが遅いタイプでもあり、試練の船出となった。
背番号12。山沖氏は阪急・オリックス時代にこの番号をずっと背負い続けた。「(入団する際に)何番が欲しいか、とかは聞かれなかった。あの時、11番から19番までピッチャーがつけていて、空いていたのが、12番だったんです」。1981年シーズンまでは大熊忠義コーチ兼外野手が「12」をつけていたが、その年限りで現役を引退してコーチ専任となり、背番号も「72」に変更。山沖氏が受け継いだ。
「(1982年の)オープン戦で大熊さんの引退試合があって『山沖! 背番号(12)をつけるからな』って言われて、それまで大熊さんの番号だったんだって、その時に初めて知ったんですけどね(笑)。自分としては1とか、7とか、4とか、尖った数字が欲しいなっていうのはあった。2は何か丸いなと思ったけど、まぁ別に……」。11は佐藤義則投手、17は山田久志投手、14は山口高志投手と主力投手がつけていたのだから“尖った番号”希望が叶うわけもなかった。
しかしながら、プロ生活が始まると背番号のことなど考える余裕もなかったようだ。1982年1月の自主トレの段階で、ドラフト1位の“看板”も全く関係ないと思わされたという。「(ドラフト)2位が仙台鉄道管理局から入った太田(敏之投手)。あいつを見て“あ、俺は無理”と思った。(右投げの)サイドスローで球が速かった。“ウワー、あんなボール、自分は投げられない、負けた”ってね。なんであいつが2位なんだ、って思いましたよ」。
山沖氏の地元でもある高知での春季キャンプでも「なんせ、練習についていくのが精一杯で……。当時、アップが1時間半くらいあったのかなぁ。もうそれだけでも……。投内連係になったら、とてもじゃない。肩ができていなくても投げなきゃいけなかったので、それもきつかったですよ」。元来、肩ができるのが遅いタイプ。「同じ練習をしていても時間がかかるんですよ。できるのは、だいたいオープン戦の終わり頃。(現役の)最後の方になったら、シーズンが始まってからでしたからね」。
オープン戦で“凱旋登板”…鰻が「喉を通らなかった」
上田監督をはじめ首脳陣も容赦なかった。「(投内連係では)手首だけで投げたりしていました。一人がミスしたら、全部の(練習の)リズムが崩れてしまうんでね、ホント(1年目は)大変でした」。必死になって食らいつき、何とかキャンプを乗り越え、オープン戦に突入した。「阪神戦だったかな、高知でオープン戦があって投げたんですけど、あれは一番緊張しました。親が初めて見に来たんですよ。大学の時は来なかったし、プロでもその後の公式戦も親は一度も見たことがないんですけどね」
プロ入り後、初の“凱旋登板”。「(登板)内容は覚えていないけど、あの日の差し入れが鰻の蒲焼きだったのは覚えている。キャンプ中に2、3回あるんですけど、うまいんですよ。でも、それを食べられなかった。喉を通らなかったですもん。ああ、緊張しているなと思ったし、ウワー、もったいないなとも思いましたけどね」。ちなみに、その時点でも肩はまだでき上がってはいなかったという。
「3月に九州で行われた広島戦。この試合に投げたら、(大学の)卒業式で帰るって日に初めてボールが指にかかったんですよ。それでやっと何とかやれるかなとなった。あれで助かったんですよ。あの日、かからなかったら、1年目のシーズンは駄目だったかもしれません」。自主トレの時に「負けた」と思った太田投手がキャンプ、オープン戦で伸び悩む形となったが、山沖氏は巻き返して開幕1軍の座もつかんだ。
「自分はようヤジられましたよ。大学を出て、背が高くて、大成するピッチャーは阪急にはいなかったでしょ。背番号12を揶揄して『やっても1年か、2年やな』って。関西人特有の励ましやったかもしれないですけどね」。山沖氏はプロ1年目のキャンプ、オープン戦を振り返りながら、しみじみとそう話した。そんな苦しい時期を経て、1年目から先発も、リリーフもこなしていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)