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42年間ユニホームを着続けた男の引退の瞬間 「マシンガン打線」の生みの親が味わった最後の5分の悲哀

コーチとして「マシンガン打線」を築き上げる

 指導者としてのハイライトの一つは、98年に成し遂げた38年ぶりのリーグ優勝と日本一だろう。当時、一軍の打撃コーチを務めた髙木は「マシンガン打線」と呼ばれる強力打線を築き上げることに成功している。きっかけは、1本のレポートだった。

「96年ごろはバッティングがどうしようもなかった。長距離を打てるやつがいない、チーム打率も悪い。それで当時、フロントにレポートを出してくれと言われたんですよ。要は、チームが勝てるようになるにはどういうバッティングをさせたらいいんだろうという宿題が出たわけです。そこで、長打を打てる選手がいないのなら、もう、つなぐしかない、と。自分の次に、次にとつないでいく野球。単打でもいい、打てなかったらボールを選んで、何とかしてつないでいく野球をしようと考えた」

 その発想の転換から、打線は生まれ変わった。もともとポテンシャルのあった選手たちがその才能を開花させたことも重なって、破壊力のある攻撃陣が完成。97、98年に鈴木尚典、99年にロバート・ローズ、2000年に金城龍彦と4年連続で首位打者を生み出し、99年にはチーム打率2割9分4厘と驚異の記録(現セ・リーグ記録)を残している。

「まあ、マシンガン打線の生みの親とか言われるけど、選手がいなかったら、そんなことはないんでね。やっぱり選手がすばらしかったんですよ。だから、そういうふうに言われたんだろうと思います。いい選手が集まってこないと、そういうチームになかなかなっていくのは難しいですからね」

 髙木は目を細めながらそう振り返る。

 以後も、2軍監督やコーチ、さらには友好球団である中国リーグの天津ライオンズ監督として派遣されるなど、現場で指導を続けた。そして、2軍チーフ打撃コーチを務めた今季、公式戦が終わった翌日にフロント首脳から連絡が入り、球団事務所に呼び出しがかかった。その瞬間、契約の終わりを直感したという髙木は、妻に「来たぞ」と告げ、翌日、最後の話し合いの場に出向いて行った。

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