あの甲子園の涙から2年 悲運の二塁手のその後と指揮官の思い
山根と市和歌山のその後
山根は守備のうまい選手だった。特に併殺を取ることに定評があった。和歌山大会を制したのも山根の守備力があったから。それは監督もチームメートも誰もが知っていた。
泣きじゃくる教え子。その頑張ってきた姿を一番近くで見ていたのは半田監督だった。高校野球は勝負の世界でもあるが、監督としては、生徒を指導する立場にもある。
「この後、山根に野球を嫌いになってほしくないという思いもありました。だから、彼に伝えたかった。お前のせいで負けたわけではない、と。確かに試合には負けましたけど、延長12回を戦うまでに勝ち越すチャンスはあった。私の采配で得点できなかった場面もあった。何もあのワンプレーで負けが決まったわけではなかったので。そう伝えました」
負けの責任は監督自身が背負うと決めた。
敗戦後、すぐに新チームに移行し、秋の大会に向けて動き出すが、半田監督は引退した山根の心のケアだけは欠かさなかった。「いつでもグラウンドに野球をやりにこいよ」。そう声をかけ、野球から離れないように心がけた。「あの代のチームメートもいい子たちばかりだった。大会が終わっても仲が良かったし、助けて合ってくれた」。
山根は周囲に支えられ、「思ったよりも早く立ち直ってくれた」(半田監督)。高校卒業後、山根は桃山学院大学に進み、野球を続けている。野球を嫌いになんてなれなかった。負けたのは1人のせいではない。甲子園に出られた喜びも、負けた事実も全員で分かち合う。半田監督の思いは届いた。