ヤクルト初優勝に貢献 デーブ・ヒルトン氏死去、そのキャリアを振り返る
引退後には台湾で指導者も、台湾での名前は「希爾頓」
この年9月19日の中日戦(静岡草薙球場)、スランプに陥ったヒルトンは永尾泰典に途中交代させられた。ベンチに戻ったヒルトンは人目もはばからず号泣、その一途さに佐藤孝夫打撃コーチももらい泣きしたという逸話がある。
打席では体を二つ折りにするクラウチングスタイル。日本では当時、MLB中継がはじまっていたが、ピート・ローズ張りの打撃フォームも話題を呼んだ。またヘッドスライディングをするなどハッスルプレーでも知られた。
ヒルトンは、ヤクルトの初優勝が決定した10月4日の中日戦で1回裏に先頭打者本塁打。これはこの年8本目、当時のNPB記録だった。ヒルトンは翌年も2本先頭打者本塁打を打っている。
この年は19本塁打、76打点、打率.317(9位)、ベストナインを受賞した。しかし、翌1979年は19本塁打、48打点、打率.258と成績が下落し、オフに自由契約に。
1980年は、ドン・ブレイザー監督のもと、阪神でプレーする。ブレイザー監督は、ヒルトンを「3番・一塁」で起用したが、大型新人・岡田彰布の起用をめぐるフロントとブレイザー監督の対立に巻き込まれ、ブレイザー監督ともどもシーズン途中で解雇された。ヒルトンはその後、ピッツバーグ・パイレーツ傘下の3Aや、メキシカンリーグで3シーズンプレーしたのちに引退した。
引退後ヒルトンは、アメリカで指導者の道を歩むが、1999年に台湾に渡り、高屏雷公で代理監督、嘉南勇士で監督を務めた。監督としては代理を含め76勝88敗、最高は3位だった。台湾での名前は希爾頓だった。
まだ67歳。短い期間だが日本人に強いインパクトを与える活躍をした外国人選手の早すぎる死去だった。
(広尾晃 / Koh Hiroo)