出世望まず、「財産は生徒との絆」―東北高の“黄金期”支えた野球部長の素顔
85歳の「長寿を祝う会」開催、鈴木春彦氏から生徒たちが教わったこととは
昭和の時代に宮城・東北高の硬式野球部部長を務めた鈴木春彦さんの「教え子たちとその家族で集う! 恩師鈴木春彦先生の長寿を祝う会」が25日、仙台市内のホテルで開かれた。約60人の教え子たちが参加し、今年5月に85歳になった鈴木さんの長寿を祝った。
鈴木さんは1957年に副部長となり、その後、部長に。84年4月に退任するまで硬式野球部を支えた。「投手は速球、打撃は強振、守備は実戦」の三大原則のもと、東北高の第1次黄金期を作った“東北高野球部の父”故・松尾勝栄監督と、その後を受け継ぎ、68年から指揮を執った竹田利秋監督(現国学院大総監督)をサポート。77年から83年の7年間でセンバツには6度の出場を果たし、夏も仙台育英や仙台商としのぎを削りながら、竹田監督とともに東北高の第2次黄金期を築いた。
鈴木さんが硬式野球部の顧問をしていた時の教え子たちは、上は76歳、下は52歳の世代になった。竹田監督の1期生で主将を務め、今回の発起人の1人である針生憲一さんは「春彦先生は苦労されたと思います。教員、寮監、野球部長、最後は教頭先生までやった。東北高校の野球部を一番、知っている人。そして、最も苦労している人。今まで慰労しなかったのがおかしいんですよ。ヤンチャもしたけど、先生は本当に真剣になって付き合ってくれました」と話す。
会では、約60人の参加者一人ひとりが高校時代の思い出を語った。教員としてクラス担任を持ち、教科の指導、野球部長として部活動の指導、61年にできた「勿忘荘(わすれなそう)」の寮監として寮生活の指導、さらには理事長の秘書もし、宮城県高野連の理事も務めた鈴木さん。当時、高校生だった教え子たちも社会に出たことで、多忙な日々の中で生徒たちと向き合ってきたその凄さを痛感したという声が多かった。また、ビートルズが来日した際、どうしてもテレビを見たくてお願いした時に快く見せてもらったことやテスト勉強の夜食としてもらったどら焼きの大きさ、色合い、味が忘れられないといったエピソードも話された。
中条善伸さん(元巨人、南海など)とバッテリーを組み、4度、甲子園出場を果たした石川裕治さんは「弘前市から出てきて入寮し、靴のそろえ方、布団のたたみ方、配膳の仕方などを教えていただきました。掃除では床に顔が映るくらい磨いた。そういった指導をしていただいたのが思い出」と懐かしんだ。