西鉄ライオンズの“キャップ“ 1番打者のイメージを変えた故・高倉照幸氏
「野武士軍団」のライオンズで異色の風貌
2番豊田、3番中西、4番大下、7番仰木が野球殿堂入り。歴史的な打線だった。1962年に中西太が兼任監督になるとキャプテンに指名され、以後、”キャップ”と親しまれる。
メガネをかけ、物静かな風貌は「野武士軍団」といわれた西鉄ライオンズでも異色だった。1963年には先頭打者本塁打を6本、通算でも16本記録。従来の1番打者のイメージを変えた打者でもあった。
以後も活躍を続けたが、西鉄ライオンズが財政難に陥ったこともあって、1967年に巨人に移籍。15本塁打を打つが、この頃から肘などの故障が多くなり、出場機会が減る。V9時代の巨人ではわき役に甘んじた。
1969年にアトムズ(1970年からヤクルト)に移籍。同い年で、西鉄の強力打線を共に担った豊田泰光と再びチームメイトになる。新天地でも勝負強い打撃を見せたが、1970年、36歳で引退した。
通算成績は1793試合5831打数1611安打168本塁打640打点178盗塁、打率.276タイトルは獲得しなかったが、ベストナイン3回、オールスターゲーム選出10回(出場9回)。
引退後は解説者。プロ野球界を離れたこともあり、西鉄ファンの間には高倉を懐かしむ声が大きかった。1978年限りで、ライオンズが九州を離れ埼玉県に移転し、西武ライオンズとなった際に、「甦れ!俺の西鉄ライオンズ」というレコードがリリースされ、話題となったが、この曲の歌詞では「高倉がいた 豊田がいた 大下がいた」と最初に高倉が出てくる。
ライオンズファンにとっては「一番打者」といえば高倉照幸だったのだ。懐かしい野球人がまた一人世を去った。
(広尾晃 / Koh Hiroo)