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赤ヘル軍団の強打者が71歳で急逝 「鉄人」衣笠祥雄氏のプロ野球人生

広島東洋カープ一筋に活躍した大打者、衣笠祥雄氏が死去した。71歳だった。衣笠氏は1947年1月18日、京都市東山区出身。平安高校時代の1964年、春、夏の甲子園に捕手として出場。1965年に広島に入団。1年目は捕手として起用されるが、当時の白石勝巳監督によって一塁手にコンバートされる。

連続出場試合記録をもつカル・リプケン・ジュニア氏(左)と衣笠祥雄氏【写真:Getty Images】
連続出場試合記録をもつカル・リプケン・ジュニア氏(左)と衣笠祥雄氏【写真:Getty Images】

通算2543安打は広島歴代最多、連続試合出場を続けたまま引退

 広島東洋カープ一筋に活躍した大打者、衣笠祥雄氏が死去した。71歳だった。

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 衣笠氏は1947年1月18日、京都市東山区出身。平安高校時代の1964年、春、夏の甲子園に捕手として出場。1965年に広島に入団。1年目は捕手として起用されるが、当時の白石勝巳監督によって一塁手にコンバートされる。

 175センチ73キロと小柄だが頑健で、背番号28であることから「鉄人」の異名をとる。俊足で、勝負強い打撃が売り。1969年に法政大学から同学年(1946年10月生まれ)の山本浩二が入ると、広島打線の二枚看板としてチームを引っ張り、1975年の「カープ初優勝」の立役者になる。この年に三塁手にコンバートされた。

 打球に向かっていくダイナミックな守備も魅力でゴールデングラブを3回受賞している。また29歳の76年には盗塁王も獲得。1983年に2000本安打を打った時点で、一度も3割を打っていなかったが、翌1984年に37歳で.329と初の3割をマークした。また102打点で打点王を獲得、MVPに輝いた。高卒1年目から1軍の試合に出ていたが、30歳を過ぎてから円熟味が増し、30代後半で全盛期を迎えた晩成型の選手だった。

 1970年10月19日から始まった連続試合出場は、1986年6月7日の阪神戦で2000試合を突破、翌1987年6月13日の中日戦で、MLBニューヨーク・ヤンキースのルー・ゲーリッグの2130試合を抜いた。この功績によって時の中曽根康弘内閣から、野球界では王貞治に次ぐプロ野球2人目の国民栄誉賞を授与される。

 連続試合出場を続けたままこの年、引退。連続試合出場記録の期間中、最多死球を5回記録。投手の内角球を恐れず向かっていく積極的な打撃スタイルを貫いての偉業達成だった。

 通算2543安打は広島歴代最多。2位は山本浩二の2339安打。山本浩二とのアベック本塁打は通算86本。これは王貞治、長嶋茂雄のON砲による106本に次いでNPB史上2位。タイトルは、打点王1回、盗塁王1回、最多安打1回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ3回、オールスター選出13回。背番号は28、3。1996年に野球殿堂入り。1983年8月9日の阪神戦(広島市民球場)で2000本安打を達成した時は「一生懸命打って、走ってここまで来た。そしてふと気がついたら2000本という数字があったというのが正直な気持ちだ」とコメントした。

 引退後は指導者にならず、解説者に。独特の甲高い声で分かりやすい解説が好評だった。数日前までテレビの野球中継の解説をしていた。まさに急逝だった。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

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