96歳で死去の手塚明治氏、巨人第19代4番打者、川上の後の5番としても活躍
巨人では4番で5試合出場、大洋では青田昇と主軸を打つ
1953年は一塁に回り、川上哲治の控え選手となったが、1953年5月16日、静岡県営草薙球場での洋松ロビンス(現DeNA)戦に「4番・一塁」で先発出場。1936年の永沢富士雄から数えて19代目の巨人軍4番打者となった。もっとも、この試合では2打席凡退で、川上と交代。巨人では5試合に4番打者としてスタメン出場したが13打数3安打0本塁打1打点、打率.231に終わっている。
1954年には再び三塁に復帰、チーム最多の99試合で三塁を守ったが、翌1955年に洋松から改称した大洋ホエールズに移籍。これも巨人出身の強打者・青田昇と主軸を打ち、規定打席に到達した。しかし翌1956年はレギュラーの座を奪われ、成績も低迷して引退した。最終年は手塚耀朗(てるお)を名乗った。35歳だった。
通算成績は、629試合1635打数399安打22本塁打194打点21盗塁、打率.244だった。
引退後は野球界を離れた。手塚氏は終戦後のプロ入りであり、戦前の職業野球ではプレーしなかったが、また日本野球史の生き証人がひとり世を去った。
(広尾晃 / Koh Hiroo)