平成の名内野手、立浪和義が歩んだ野球人生 史上最多487二塁打で野球殿堂へ

野球殿堂に選出された立浪和義氏【写真:Getty Images】
野球殿堂に選出された立浪和義氏【写真:Getty Images】

PL学園3年時には主将として春夏連覇にチームを牽引

 2019年の野球殿堂プレーヤー表彰で選出された立浪和義氏は、1969年大阪府吹田市に生まれ、小学校時代にボーイズリーグに入団して野球をはじめ、のちにPL学園高硬式野球部に入部した。

 立浪が入学した1985年、PL学園は3年生になった桑田真澄、清原和博を擁して夏の甲子園で優勝。1年生の立浪は、スタンドから声援を送っていた。

 翌1986年、2年生になるとレギュラーに抜擢されたが、春のセンバツでは1回戦で浜松商に1-8で敗れた。夏は、大阪府大会準決勝で泉州高校に0-1で敗れ、6期連続で出場していた甲子園出場記録が途絶えてしまう。

 しかし、立浪の世代も片岡篤史、野村弘樹、橋本清と逸材揃いで、3年生となった1987年にはKKコンビも達成していない春夏連覇を達成。立浪は主将としてチームを引っ張った。

 この年のドラフト会議では、南海と中日が立浪を1位で指名。当たりくじを引き当てた中日への入団が決まる。

 173センチ、70キロと小柄だったため、プロに適応するには時間がかかると思われたが、春季キャンプから野球センスが高く評価される。星野仙一監督は正遊撃手だった宇野勝を二塁にコンバートして立浪を遊撃に抜擢。開幕戦から「2番・遊撃」でスタメン出場すると、第3打席に大洋の欠端光則からプロ初安打となる二塁打を記録した。これが「二塁打王」立浪和義の最初の二塁打となった。

 この年に新人王とゴールデングラブ賞を獲得したが、翌1989年は右肩の故障で開幕を2軍で迎え、30試合の出場にとどまった。1990年に見事復活を遂げ、1番打者として初めて3割をマーク。以後、20シーズンの長きにわたって、中日の主力選手として活躍し、「ミスタードラゴンズ」と呼ばれた。

 守備位置は1991年まで遊撃手だったが、92年からは二塁手に転向。98年には1シーズンだけ左翼を守り、99年からは再び二塁、2002年からは三塁を守った。野球センスは抜群で、どのポジションでも俊敏な守備を見せ、遊撃、二塁、三塁でゴールデングラブ賞を受賞している。

 打っては、3割を8度マーク。主要な打撃タイトルは獲れなかったが、コンスタントに好成績を挙げる、指揮官にとっては非常に心強い打者だった。

通算487二塁打はNPB歴代1位、通算2480安打は歴代7位

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY