「松坂世代」の元西武右腕が独立Lで得たもの アカデミーで新たな挑戦へ

独立リーグ新潟で感じた若い選手たちの思い「僕が(NPBに)戻るよりも…」

 それでも、1年目から46試合に登板し、10年には自己最多となる56試合に登板。リリーフとして活躍した。その後、13年にDeNAにトレードで移籍したが、16年には1軍での登板が6試合に留まり、オフに戦力外通告を受けた。トライアウトに参加したものの、NPBの球団から声がかかることはなく、BCリーグの新潟に入団した。

「プロに入ってからは、どうやったらバッターを抑えられるかだけを考えていました。先輩に質問しても、聞きまくってやっと1つ2つ教えてもらえるくらい。だから、見て盗んでいましたね。戦力外になりましたが、まだ肩も肘も痛くなくて『まだできるな、どこかあればいいな』と思っていたので、新潟に行きました」

 新潟には、野球に対して一生懸命で、厳しい環境の中でNPBを目指している選手がたくさんいた。それまでは後輩の成績が良くなってしまったら自分の居場所がなくなるため、後輩を指導をすることはなかったが、新潟では初めて後輩に技術を教えようと思った。

「オフの間は地元のスポンサーでアルバイトをしながら、NPBに入ることだけを目指してみんな頑張っていました。その姿を見ていたら、僕が戻るよりも若い子たちに行ってほしいと思うようになりました。それからは、それまではあまり言えませんでしたが、『ここをこうやったらよくなるよ』と伝えるようになりました」

 初めて肩が痛くなったことに加え、「NPBでプレーしたい」という若い選手たちの強い気持ちに勝つことができず、1年で引退を決断。昨年は解説者を務め、今年からライオンズアカデミーのコーチとして新たなチャレンジが始まった。始まったばかりの約2か月のアカデミーコーチの活動を経て「自分の頭で考えたことが言葉になって子供たちに伝わることが嬉しい」と笑顔を見せる。

 夢は、子供たちに目標に最短でたどり着くために上達してもらうこと。その方法をどうやったら伝えられるか、勉強の日々を送っている。

(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)

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