「野球のおかげで…」父の死、震災、がん手術…元PL戦士が苦難の末に叶えた夢

「死ぬと思ったこともありましたからね」1年後、指導者としてグラウンドへ立つ

 17年夏に富士大の助監督を辞めた後、奥玉監督は営業職に就いていたが、昨年1月末、体調を崩した。診断の結果、後腹膜脂肪肉腫の悪性腫瘍。聞いた時は「真っ白になった」。自宅がある北上市や盛岡市の病院に入院。抗がん剤の影響で体に力が入らず、スマートフォンも持てない。数メートルの歩行も息が切れた。「頑張ろうと思う瞬間があれば、ダメだなと思う時もある。そんなの、行ったり来たり」と、闘病生活は苦しかった。

「一番は家族。そして、野球を通じて知り合ったたくさんの仲間たちが言葉をかけてくれたおかげ。待っていてくれている人がいるとか、自分にいいように解釈したのが頑張れた要因ですかね。そして、どうせ死ぬのなら…、死ぬと思ったこともありましたからね。津波の時もそうだし、今回はもっと。手術もできないと言われたこともあったから『いよいよ、やばいな』と思ったけど、できることなら、もう1回、好きなことをやって終わりたいなという気持ちもありました」。

 9月に行われた手術が成功。家族、仲間、そして野球への思いで病気に勝った。1年前には考えられなかった指導者の道。「去年の夏の大会は病院のベッドの上で見ていましたからね。不思議ですよね。今年の夏、指揮を執るんですよ」という笑顔には力がみなぎっている。

 ともに戦う、出会った盛岡中央の選手たちに伝えたいことがある。

 自分が自分の一番のファンであれ――

 人生でも野球でも、落ち込んだり、くじけたりすることがある。でも、自分を否定しなくていい。「自分が自分のことを認めてあげなかったら、周りも認めてくれないよ。自分のことが好きじゃないのに、他の人が自分のことを好きになってくれないよ。自分が自分の一番の応援者でいることが大事」。震災当日、奥玉監督は母校・南気仙沼小の6年生に講演しており、そんな話をしたのだが、あれから8年後、夢だった高校野球の監督として教え子たちに伝える。

「私の病気でいうならば、生存率何%とか、発症率何%とか出てくるけど、人は人であって、私の体は私の体。そういう意味でも自分とどう向き合えるか、何のためにやっているのかが大事なのかなと思う。相手どうこうと考えると無理もするし、背伸びもしたがる。自分が楽しかったか、自分が充実したか。そこを大切にしていきたいですね」

 自分を信じて、気仙沼から大阪へ飛び出した中学1年の秋。数奇な運命をたどる中、常に野球で培ったバイタリティで困難に立ち向かってきた。盛岡中央の選手たちと対面した日、まず話したのはPL学園の部訓でもあった「球道即人道」だった。盛岡中央高硬式野球部のコンセプトを聞き、似ていると感じたからだ。「野球道は即ち、人の道である」と言い、ホワイトボードにペンを走らせた。

「子どもたちが野球をやって良かったなと思ってもらえるようなアドバイスをしていきたい。野球が好きだ、甲子園に行きたい、家族のため、何でもいいんですけど、思いのあるチームを作りたいなと思います。球道即人道は常に私の軸になっているところ。私ができているからやれではなく、それが基本の柱になっているということ。できているかじゃない。私も修行中です」

 春夏7度の甲子園優勝を果たした名門・PL学園は2016年夏を最後に休部、2017年3月に高野連から脱退し、今、その形はない。だが、PL学園の魂は、人の基盤となって、生きている。

(高橋昌江 / Masae Takahashi)

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