復帰率30%からの奇跡 社会人監督と甲子園V腕・吉永が目指した復活のマウンド

JR東日本・吉永健太朗【写真:楢崎豊】
JR東日本・吉永健太朗【写真:楢崎豊】

JR東日本・堀井哲也監督 「7年ぶりだな、こんないい球投げるのは…」都市対抗野球初登板へ

 社会人の名門・JR東日本の監督で数多くのプロ野球選手を輩出している堀井哲也監督。19日に第90回都市対抗野球の初戦を迎えるが、あるひとつの挑戦に立ち向かっている。「復帰率30%」のけがと位置付けられた2011年夏の日大三(西東京)の甲子園優勝投手で、翌年の全日本大学選手権決勝で勝利投手にもなった吉永健太朗投手の復活だ。初の都市対抗野球のマウンドへ。同社で過ごした4年間には多くのドラマがあった。

 ブルペンの吉永の投球を見た堀井監督はうなり、思わず声をかけた。

「7年ぶりだな、こんないい球を見るのは…」

 6月のある日。2人しかわからない空間がそこにはあった。

「今、いいときのスピード感からすると、9割くらいかもしれません。だけど、ボールの質は(7年ぶりと言ったが)それくらい。肩をかばわないで放ったという意味でね。怖さはまだあるかもしれませんが、肩の痛みがなくなった。私は復帰が奇跡だと思っています」

 表情には喜びがあった。

 出会いは吉永が早稲田大学の1年生だった7年前に遡る。高校でも大学でも日本一になった右腕とは、2012年11月末から台湾で行われたアジア野球選手権だった。堀井監督はコーチ。吉永は1年生ながら抑えを任されていた。吉永は大学1年目からリーグ戦で大活躍。4勝に防御率はリーグ1位。スカウトからは“3年後のドラフト1位候補”とまで言われた。可能性は低いが、「もしも、4年後にプロに行かなかったり、何かあったりしたら、JR東日本に来いという話をしましたね」という。それがスタートだった。

 何かあったら…

 言っていたことが現実になってしまった。大学2年の秋に調子落とし、フォームが乱れ、4年の時に肩を痛めた。堀井監督は医者の判断を仰ぎながら、JR東日本に吉永を迎えることを決めた。

「1年目からできる、できないは別として、必ず、将来、肩もフォームも回復させて、チームの中心選手にする」

そう心で誓ったが、ここからが苦難の連続だった。

 1年目の夏は何とか中継ぎで行ける目処が立ったが、再び肩を痛めた。その時、堀井監督は野手としても高いポテンシャルを持っていた吉永に打者転向を打診した。これまでも三菱自動車岡崎の監督時代には谷佳知氏(オリックス・巨人)、JR東日本でも寺内崇幸氏(巨人・現栃木GB監督)、田中広輔(広島)、西野真弘(オリックス)ら野手も多くプロに送り込んでいた。その目は確かだった。

「バッティングも非常にいいし、足も速くてセンスもある。ショートで2年やってプロに行け、と。ピッチャーはもう諦めたらどうだ? と言いました。でも、本人はどうしても投手というのが外せなかったんです」

 最初は「そんな気持ちではダメだ」と拒否した投手と野手の兼任案を、吉永の強いこだわりから承諾し、“二刀流”が始まった。翌シーズンでの「3番・遊撃」での出場を目標に、オフシーズンに徹底的に鍛え上げた。一方で、野手としての全体練習が終わった後にブルペンに入ったり、打撃投手を率先して務める姿も見ていた。

 2年目で迎えた3月初旬。シーズンが始まるオープン戦の時に悪夢が吉永を襲った。一塁走者で牽制球に帰塁した時に、右肩を亜脱臼。最初は保存療法で2か月くらい安静していた。打つことはできたが、投球はできなかったため、ここでは野手に専念。しかし、2か月経っても肩は治らず、ショートでの出場も難しいため、手術をすることになった。

「関節唇がはがれてしまっていて、それを止める手術だったんですが、いろいろデータを取ったり、ドクターと話をしてみても、私は復帰の確率は30%くらいだと。いや、もっと低いんじゃないかなと思いました」

 9月に手術を終えた。野手として、ボールが投げられるようになるまでは最低、1年がかかるという診断だった。

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