83歳で死去のアーニー・ブローリオ氏 日米野球でも活躍した60年最多勝右腕

カージナルス、カブスで活躍したアーニー・ブローリオ氏【写真:AP】
カージナルス、カブスで活躍したアーニー・ブローリオ氏【写真:AP】

カージナルス、カブスで活躍したアーニー・ブローリオ氏、16日に死去

 7月16日、1960年代にカージナルス、カブスで活躍した右腕投手のアーニー・ブローリオ氏が死去した。83歳だった。

 1935年8月27日、カリフォルニア州生まれ。日本で言えば、野村克也、長嶋茂雄などと同世代だ。1954年、高校からマイナー・リーグ入り。1956年にニューヨーク・ジャイアンツに入団。1958年にトレードでセントルイス・カージナルスに移籍し、傘下のマイナーでプレーした。

 このオフのカージナルスの日本遠征に同行。カージナルスは14勝2敗とNPBを圧倒したが、ブローリオは長嶋茂雄、杉浦忠ら同世代の日本のスター選手を相手に、チーム最多の4勝を挙げる。ただし11月6日の広島市民球場での全日本との対戦では長嶋茂雄から本塁打を打たれている。メジャーデビュー前だったブローリオは後年「日本の大観衆の前で投げたことが良い経験になった」と語っている。

 1959年、メジャーデビュー。1年目で先発、救援を掛け持ちし7勝を挙げる。翌1960年は、主として救援投手だったが、好投が続いたため6月頃から先発でも登板するようになり勝ち星が増え、最終的には21勝を挙げる。先発で14勝、救援で7勝。のちに殿堂入りする左腕大投手、ウォーレン・スパーン(ミルウォーキー・ブレーブス)と並んで最多勝のタイトルを獲得した。この年のサイ・ヤング賞投票では3位に入った。

 当時のカージナルスは、大打者スタン・ミュージアルが晩年を迎え、二塁はのちに阪急で活躍するダリル・スペンサーが守っていた。またのちに殿堂入りする大投手、ボブ・ギブソンは同い年で同期のチームメイト。この時点ではブローリオが出世争いでは大きくリードしていた。

 翌年からは先発に専念して、9勝、12勝、18勝と安定した成績を上げるが、1964年6月に複数トレードでシカゴ・カブスに移籍。この時の交換相手には、カージナルスでスピードスターとして売り出すルー・ブロックがいた。

 しかしカブスに移籍してからは右肘痛に悩まされる。手術もしたが成績は振るわず。1966年にはレオ・ドローチャーが監督になり、ブローリオの再生を試みるが失敗し、オフに退団。翌年はレッズ傘下のマイナーで投げるも、メジャー昇格はならず引退した。32歳だった。この年、彼の球を受けた捕手の中には、のちの大捕手、ジョニー・ベンチがいた。

 身長188センチ、90キロ。当時としては大柄で、若いころは速球が武器だった。通算成績は259登板77勝74敗1337回1/3、防御率3.74だった。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

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