2011年夏の甲子園 日大三V腕と女房役 今でも続くバッテリーの“会話”

2011年の夏の甲子園、日大三の優勝バッテリーでJR東日本でプレーを続ける吉永健太朗投手(左)と鈴木貴弘捕手【写真:編集部】
2011年の夏の甲子園、日大三の優勝バッテリーでJR東日本でプレーを続ける吉永健太朗投手(左)と鈴木貴弘捕手【写真:編集部】

社会人名門・JR東日本の鈴木貴弘捕手 同僚・吉永健太朗投手の復活を支える

 初夏のJR東日本グラウンド。ブルペンで鈴木貴弘捕手が吉永健太朗投手のボールを受けていた。2011年の夏の甲子園で大会史上4チーム目となる6試合連続2ケタ安打の強打を誇って優勝を飾った日大三でバッテリーを組んでいた2人。8年経った今、同じ社会人チームで、再び全国の頂点に立つことを夢見ている。

 鈴木は日大三を卒業後、進学した立教大学で主将を務めるなど東京六大学リーグでも活躍した。JR東日本でレギュラーではないものの、堀井哲也監督から信頼され、チームに不可欠な存在となっている。何よりも右肩痛からの復活を遂げようとしている高校時代からの同期・吉永を陰で支えてきた。

 2人の出会いは今から11年前、中学3年生の時までさかのぼる。調布シニアの吉永と対戦した海老名リトルシニアの鈴木は「完封負けをした記憶があります。まっすぐも強いし、変化球の制球もよかった」と思い出せば、吉永も「自分が二塁ランナーで第二リードをした時に刺されました」とその強肩をしっかりと覚えている。

 高校時代、栄光の時間を共に過ごし、早稲田大、立教大とそれぞれの道を進んだが、再び運命は交錯した。鈴木は「また、社会人で一緒にできるのはうれしかった」と率直に思ったが、自分がボールを受けていた頃の吉永健太朗の姿ではもうなかった。フォームを崩し、右肩を痛めていた。

 最初の公式戦でバッテリー組むことができたが、吉永は再び、右肩の大きなけがに見舞われた。手術も受けて、休部扱い。長いリハビリ生活が始まった。社業に専念することになり、業務終了後や仕事が休みなどの空いた時間で練習をしなくてはならなかった。グラウンドやブルペンが自由に使えるのは、チームの練習後。鈴木は限られた時間と場所で吉永がリハビリに励む姿をずっと見ていた。

 手術から10か月が経過した昨夏、吉永はブルペンに立てるようになった。鈴木は吉永から「受けてほしい」と声をかけられた。

「人一倍、努力をして、頑張っていたのを見ていたので…」

 全体練習を終えてから、再び、グラウンドに出るのは正直、しんどかった。しかし、鈴木は体を休める時間を吉永のために使うことにためらいはなかった。誰もいなくなった夜のブルペンでボールを受けるミットの音が鳴った。

 右肩の状態が良い時はいいが、投げ始めようとした時に肩が上がらなくなり「ごめん、やっぱり投げられない」と何もできずに寮に戻ることもあった。申し訳なさそうにする吉永に対して、鈴木は嫌な顔をひとつもせず、励まし続けた。

 堀井哲也監督は「吉永にとって、鈴木の存在は大きいと思います。食堂で吉永が鈴木の座っている席に自然と行ったりしているのを見ると、リラックスできる存在なのだな、と思います」と2人を見つめている。女房役― そんな言葉がピッタリと当てはまる。休日になれば、たまに飲みに行ったり、ゴルフを一緒に行ったりもする。今でも支え合う甲子園を沸かせたバッテリーは、もう一度、全国の舞台で喜びを分かち合うことを目指し、野球と今も向き合っている。

「ここまでやってきたことを無駄にしてほしくはないですし、(吉永が)マウンドで投げる姿を見たいんです」

 8年前の夏、マスク越しに見ていた右腕の姿はたくましく輝いていた。その盟友がけがで野球を奪われる寸前まで追い込まれる苦しむ姿も見てきた。鈴木は吉永の球を何度も受けてきた。困ったらマウンドに行って駆け寄り、激励をした。困った時は一緒に打開してきた。それは試合に限ったことではない。

 バッテリーの“会話”は今もまだ、続いている。

【動画】2011夏V日大三 吉永健太朗-鈴木貴弘(現JR東日本)の今 8年前の夏の真実

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