元ヤクルト&近鉄の“赤鬼”が日本時代を回顧「イカとガムを噛んだ」理由は…

ヤクルト、近鉄などで活躍したチャーリー・マニエル氏(写真はインディアンス時代のもの)【写真:Getty Images】
ヤクルト、近鉄などで活躍したチャーリー・マニエル氏(写真はインディアンス時代のもの)【写真:Getty Images】

ヤクルト、近鉄でプレーしたマニエル氏、監督としてフ軍を世界一に導いた

 ヤクルト、近鉄でプレーし、引退後は監督としてフィリーズを世界一に導いたチャーリー・マニエル氏。13日(日本時間14日)に自身のツイッターを更新し“フラッシュバック・フライデー”として日本時代を回想し、2年連続本塁打王を獲得するなどの活躍をできた理由などを綴っている。

 マニエル氏は自身の「フラッシュバックフライデー。1980年には噛みタバコがベンチ内で禁止されていた。だから私は(代わりに)イカとガムを噛んでいた。打率.325、48本塁打、66三振、長打率.673という成績を私はその年に残した。#akaoni」とツイッターに投稿。キャリアハイの48本塁打で本塁打王、129打点で打点王を獲得した1980年を振り返り、愛称として親しまれた“赤鬼”のハッシュタグも添えた。

 ファンから「なぜそこまで素晴らしい活躍ができたのか」との質問が寄せられると、それに回答。「その前年に私は記録を塗り替えるペースで本塁打を放っていたが、その時私は顔面に死球を受けた。(顔面に)死球を受け、大けがを負ったのはその時で既に2度目だった。その2度目の死球を受けた後、私は日本で戦線離脱した。それもあってか、成功するためにより大きな覚悟ができた」と返信した。

 1979年、開幕48試合で24本塁打と驚異的なペースで打ちまくっていたマニエル氏だったが、6月9日のロッテオリオンズ戦で八木沢荘六投手から顔面に死球を受けて顎を複雑骨折した。戦線離脱を強いられたが、97試合の出場ながら37本塁打で本塁打王を獲得。近鉄のリーグ優勝に貢献した。

 このほかにもマニエル氏はファンから寄せられたコメント、質問のいくつかにも返信。日本での思い出を記している。

「日本に初めて来たときの私は、戸惑っていた。しかし、私が日本という国を体験することで、そこで過ごした時間は私の人生の中でも最高のものとなった。そこで学んだ教訓のおかげで、私は選手、コーチ、監督として成長することができた。野球が更に好きなって、私は(アメリカに)帰っていった」

 日本での経験を活かし、引退後は指導者の道に進んだマニエル氏。インディアンス、フィリーズで12年間監督を務め、2008年にはフィリーズを世界一に導いた。MLB通算1000勝を達成した2013年を最後にグラウンドから遠ざかっていたが、今年8月13日(同14日)に古巣フィリーズの打撃コーチに就任している。

(Full-Count編集部)

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