ヤクルト在籍は「人生の転換点」…韓国代表の元燕守護神が抱く特別な思い

ヤクルトの球団設立50周年を記念したOB戦に登板した林昌勇氏【写真:荒川祐史】
ヤクルトの球団設立50周年を記念したOB戦に登板した林昌勇氏【写真:荒川祐史】

7月のOB戦の最終回のマウンドに立った林昌勇氏 健在だったサイドスロー

 今年のプロ野球のイベントで印象に残った名場面として挙げたいのが、7月11日に行われたヤクルトの球団設立50周年を記念し、OB戦「オープンハウス presents スワローズ ドリーム ゲーム」。試合を締めくくったのは、元助っ人守護神の林昌勇氏だった。ヤクルト退団後はメジャーや韓国のチームでプレーし、今年3月に引退を発表。ヤクルトを離れてから、7年の時を経ても、神宮球場の最終回がよく似合うと感じた。用意された一夜限りの”居場所”を、存分に堪能した。現役生活を振り返って去来するのは、日本で過ごした5年間への特別な思いだという。

 ぐずついた天候の影響で当初の7イニング制から5イニングに短縮されても、任された場所は変わらず、大トリ。4点リードの5回に登板した林氏は1失点で1イニングを投げ切ってベンチに戻った。その直後、相手チームが「泣きの1イニング」を要望。若松勉監督からイニングまたぎを頼まれ「ちょっとびっくりしました」と笑ったが、これも夢舞台ならでは。きっちりと三者凡退に抑えてみせた。

 ファンの脳裏には今でも、サイドスローから繰り出される豪速球が脳裏に焼き付いている。登板した日の球速は120キロ台半ばだったが「ちゃんと投げれば150キロくらいは出ると思いますよ」とニコリと表情を崩したのが印象的だ。出場したレジェンドの中で最も現役に近い43歳は「仕留めやすい打者が多かったですからね」とジョークも忘れなかった。試合後には、最後の打者になった度会博文氏から「ナイスボール! すごいね、まだプレーヤーいけるよ」と声をかけられ、はにかんで応えた。

 2008年に新天地を日本に求めた助っ人右腕は、すぐに実力を証明した。来日1年目から33セーブを挙げると、4年連続で50試合以上に登板し、通算128セーブを記録。タイトルこそ獲得はなかったが、不動のクローザーとして君臨した。09年にはWBCにも出場。決勝でイチローから決勝打を打たれたものの、韓国代表を準優勝まで押し上げる大きな原動力になった。故障でシーズンを棒に振った12年限りでヤクルトを退団。鮮やかだった異国での日々に思いを馳せ、懐かしむように言う。

「ヤクルトでプレーしたのが、私の野球人生の転換点でした」

 韓国時代、右肘の手術を経験して30歳を迎え、思うような結果が残せていなかった。そんな時に決断したNPB行き。「日本に来たおかげで復活できましたし、本当に楽しく野球をやれました」。30代半ばで隆盛を極め、メジャーにも挑戦。その後、再び韓国で40歳を過ぎても腕を振り続け、昨年には日米韓で通算1000試合登板も達成した。今季も現役続行を希望していたが、獲得する球団はなく今年3月に引退を選んだ。

「今まで長くやってきて、家族と離れていることが多かったので、まずは奥さんと子どもとたちと一緒に過ごす時間を作りたいです」。夢舞台が終わり、穏やかな表情で雨上がりのグラウンドに目をやった。マウンドからの景色も、ファンの声援も、あの時と変わらない。「投げていて、当時のことを思い出しました」。区切りの年に踏みしめた神宮のマウンドは、約四半世紀に及ぶプロ生活への最高の労いだったに違いない。

(小西亮 / Ryo Konishi)

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