ヤンキース・ジャッジ誕生の陰に伊良部も? 幾重にも重なるトレードが導いたドラ1指名

ヤンキースのアーロン・ジャッジ【写真:Getty Images】
ヤンキースのアーロン・ジャッジ【写真:Getty Images】

ルーベン・リベラから何人もの選手が入れ替わり、ジャッジ獲得の1巡目指名権が舞い込んだ

 日本と比べて選手のトレードが盛んなメジャーリーグ。元をたどっていけば思わぬ選手につながることもある。米TV局「CBSスポーツ」では「ルーベン・リベラからアーロン・ジャッジへ:1990年のトッププロスペクトを30年かけてスター選手に変えたヤンキースの手口」との記事を掲載。ヤンキースがジャッジ獲得に至るまでの、総勢8人もの選手の人生が絡んだ数奇な運命を紹介している。

 すべての発端は1990年11月21日、ヤンキースがルーベン・リベラを獲得した日にさかのぼる。ヤンキースでMLB歴代最多の通算652セーブを残したクローザー、マリアーノ・リベラの従弟にあたるルーベンは、マリアーノ以上に期待されながらも一向に思うような結果を残せず。その後1997年4月22日、パドレスが保有権を持ちながらもヤンキース入りを熱望していた伊良部秀輝投手とのヤンキース4選手、パドレス2選手+金銭300万ドル(約3億2000万円)の大型トレードが成立した。

 ルーベンに替わりヤンキースに入団した伊良部について、記事では「ヒデオ・ノモは1990年代中盤にMLBに旋風を巻き起こし、他の日本人スター選手たちがMLBに移籍するための道を切り開いた。和製ノーラン・ライアンとして知られていたイラブは、ノモよりも多くの注目を浴びた」と紹介。移籍2年目の1998年にはヤンキース先発ローテーションの5番手に定着したが、その後は思ったような活躍ができず、スプリングトレーニングで2試合連続で一塁カバーを怠ったことで当時のスタインブレナーオーナーから「太ったヒキガエル」の汚名を付けられたというエピソードを伝えている。

 救援投手として迎えた1999年も5月には先発に再転向。7月30日のレッドソックス戦では12奪三振完投勝利を挙げ防御率3.89を記録したが、シーズン終盤の2カ月間は防御率6.63と低迷し、その年の12月22日、エクスポズのジェイク・ウエストブルックを含む3選手とのトレードにより放出となった。

 ヤンキースはその後もトレードを重ね、翌2000年6月29日にはウエストブルックをインディアンスのデビッド・ジャスティス他2選手と交換。そのジャスティスが2001年12月7日にメッツのロビン・ベンチュラと、さらに2003年7月31日にベンチュラが当時ドジャーズマイナーだったスコット・プロクターら2選手とトレードになった。4年後の2007年7月21日にはプロクターがドジャースのウィルソン・ベテミーとのトレードで古巣へ帰り、ベテミーも2008年11月13日にヤンキースに2選手、ホワイトソックスに3選手が入団する大型トレードでニック・スウィッシャーと交換された。

 そして2012年11月9日、数々のトレードの末に獲得したスウィッシャーが1330万ドルのクオリファイングオファーを拒否。FAで移籍したインディアンス、同じくクオリファイングオファーを拒否したラファエル・ソリアーノが移籍したナショナルズから、それぞれヤンキースにドラフト1巡目指名権が譲渡された。

 計7回にもわたるトレードの繰り返しと、3枠のドラフト1巡目指名権でアーロン・ジャッジを獲得したヤンキース。名門ゆえの長き歴史の果てのスター誕生となった。

(Full-Count編集部)

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