斎藤雅樹氏は「心臓が弱かった」 背中を見てきた篠塚氏が語る“平成の大エース”

長きに渡り巨人の主力として活躍した篠塚和典氏【写真:荒川祐史】
長きに渡り巨人の主力として活躍した篠塚和典氏【写真:荒川祐史】

「斎藤が投げて負けたらしようがない」とはっきり割り切れるエース

 読売巨人軍史上屈指の好打者で通算1696安打を放ち、守備でも名二塁手として鳴らした篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)。Full-Countでは、篠塚氏が現役時代にともに戦った名投手たちを振り返る「篠塚和典 背中を見てきた投手たち」を連載中。今回は11試合連続完投勝利の日本記録を樹立し“ミスター完投”の異名を取るなど、長年巨人のエースの座に君臨し、2016年に野球殿堂入りも果たした斎藤雅樹氏の素顔を明かす。

 埼玉・市立川口高からドラフト1位で入団した斎藤氏の1年目にあたる1983年、篠塚氏はすでにプロ8年目・26歳の中堅選手だった。「斎藤は最初、高校から入ってきたということもあって線が細かった。心臓が弱いというか、ちょっと打たれた時にマウンドに行ってみると、顔が真っ青でさ。『大丈夫かな?』っていうのが最初の印象だった。ここまでになるとは想像してなかったね。優しい雰囲気の選手で、自分からグワーッと向かっていくタイプではなかったよね」と苦笑まじりに振り返る。

 斎藤氏は早くも1年目の5月、当時の藤田元司監督のアドバイスで、オーバースローからサイドスローに転向した。投球する際の腰の動きが横回転で、サイド向きだったといわれている。一方で強肩と打撃センスを買われ、野手転向を勧める声もあった。「遊撃手にすれば近い将来レギュラーになれる」と断言するコーチもいた。しかし、篠塚氏は「確かにそういう話もあったけれど、投手で正解だったんじゃないの? われわれ野手の目から見れば、(野手に転向していたら)そこそこはやれたのかなという程度で、そんなに長くはできなかったのではないかと思う」と明かす。

 斎藤氏は2年目の84年、就任1年目の王貞治監督(現・ソフトバンク球団会長)のもとで1軍デビューを果たし、翌85年には12勝を挙げたが、以後の成績は下降線。87、88年はもっぱらリリーフ要員だった。

 ところが、藤田氏が監督に復帰した89年、ひ弱なイメージが抜けなかった斎藤氏がガラリと変貌を遂げた。5月10日の横浜大洋(現・DeNA)戦から11試合連続完投勝利の日本記録を樹立し、20勝7敗、防御率1.62の成績で最多勝、最優秀防御率、沢村賞を総なめ。翌90年も20勝と最多勝、最優秀防御率の2冠を達成した。

「がらっと変わった感じだったね。マウンドで笑顔を見せたりとか。1年の間にも、だんだん良くなっていくのが後ろで守っていてわかった。野手のわれわれに詳しい内容はわからないけれど、斎藤が納得いくように恩師の藤田監督がアドバイスをしたのだと思う。どこかで本人が自信をつかんだんだろうね」とみる。

 最多勝5回、最優秀防御率3回、最多奪三振1回、沢村賞3回、MVP1回。通算180勝96敗。その後も斎藤氏は巨人の絶対的エースとして君臨し、盤石の安定感を示した。

守っていても、気持ちの余裕「自分の打撃のことを考えられた」

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