斎藤雅樹氏は「心臓が弱かった」 背中を見てきた篠塚氏が語る“平成の大エース”
守っていても、気持ちの余裕「自分の打撃のことを考えられた」
その投球スタイルは、球威で圧倒するのではなく、駆け引きの妙があった。「スピードはそれほどでなく、140キロちょっとくらいだったかな。シュート、速いスライダー、タイミングをずらすカーブを内外角に投げ分け、それを意識させながら今度は速い球を投じて打者を翻弄した。球が速くてスゲーという感じではなかったけれど、楽しそうに投げてたよ。コントロールがいいから、われわれも守りながら彼のピッチングの組み立てを楽しむことができた。それにリズムを大事にしていて、ポンポンポンポンと投げるタイプだったから守りやすかった」と篠塚氏は説明する。
さらに「斎藤が投げる時は、守っている時でも自分の打撃のことを考える時間が長かったかもしれない」と打ち明けた。
守備に就いている野手が自分の打撃のことをあれこれ考えるというのは、決して褒められることではないが、それほど斎藤氏の投球がバックに安心感を与えていたということなのだろう。「そうそう。彼は放っておいても彼の仕事をやる選手なので、こっちもこっちの仕事をしようと。もちろん、しっかり守ってはいたけれど、何も心配することがなかったんで、守りながら少しバッティングのことを考えたりね」と笑った。
そんな斎藤氏にまつわる、数少ない“打たれた記憶”といえば、初の20勝を挙げた89年の8月12日。ナゴヤ球場で行われた中日戦で9回1死までノーヒットに抑えていたが、音重鎮氏の詰まった当たりの初安打をきっかけに崩れ、最後は2死一、三塁で落合博満氏に逆転サヨナラ3ランを被弾。3-4で敗れた。「あの一発に限らず、落合さんにはよく打たれた印象はあるね。あれだけのバッターになると読みもいいし、技術もある。誰が投げても嫌なバッターだったと思う。守っていて(2人の対決は)見ごたえがあったよ」と篠塚氏は懐かしむ。
数々の名投手の後ろを守ってきた篠塚氏だが、その中でも斎藤氏の安定感は突出していた。「『斎藤が投げて負けたらしようがない』と、はっきり割り切れるエースだった。斎藤が投げる時は、自分のことをやって、彼も自分の力を出してくれれば勝てると、野手はみんな思っていたんじゃないかな」と、今も頼もしげに思い返すのだった。