母を亡くした夏、マウンドから見た甲子園 “白山の奇跡”2年後のエピローグ

白山高校・木村偲生
白山高校・木村偲生

甲子園出場を果たした2年前、女手ひとつで育ててくれた母を亡くした

 2年前、部員5人の状態からわずか5年で甲子園出場を果たした三重・白山高校。当時“白山の奇跡”とも言われた歓喜の輪のなか、一人、亡き母への思いを胸に聖地のグラウンドに立つ選手がいた。ボールボーイとして1年生で甲子園の土を踏んだ木村偲生(しゅい)内野手は、夏の大会が始まる直前の5月、母子家庭で女手ひとつで育ててくれた母を病で失った。

 野球好きの母がつけてくれた偲生という名前は、“首位打者”からとってつけられたもの。野球を始めたきっかけも母だった。小学校から中学に上がるまでの間は、毎年のように母に連れられ甲子園を観戦。高校入学時には「親を甲子園に連れて行く」とグラブに刺繍を入れた。

「心の中で母に、甲子園の土は踏めたよと報告しました。当時は投手で、審判の方から『君、投手だったらマウンドからの景色を見ておいで』とロジンバックを渡された。幼いころから何度も母に連れてきてもらった甲子園ですが、外側から見る景色と中から見る景色って全然違うんだな、次は自分の力でこの場所に立ちたいと思った」

 肩の怪我で投手としての道は絶たれたが、その後も甲子園へ戻ることだけを目標に必死に練習を積んできた。そんななか訪れた突然の大会中止発表。気持ちの整理は簡単ではなかった。「あの場所でもう一度野球がしたかった。この3年間には何の意味があったのだろう」。自粛期間は寮から祖父母が住む実家に帰省したが、一人部屋にこもり、泣いた。

 それでも、野球を諦めることはできなかった。「学校がなかった時間、ずっと家で友達と野球したい、試合がしたいなとずっとそんなこと考えていて。野球がしたくてたまらなくて。やってなかったら今何やってたんやろって。野球に出会えて良かった」。自粛開けにグラウンドに戻ると、代替大会へ向け練習を再開。「お母さんのために打ってこい」。東監督からそう送り出された3回戦では、適時打を放った。

 卒業後は消防士への就職を目指す。「親が亡くなって、すごく悲しかった。その思いを他の人には味わってほしくない。困っている人がいたら助けられるような、立派な消防士になりたい」。木村選手の最後の夏は、フジテレビ系「S-PARK」のドキュメンタリー企画「2020夏 これが、僕らの甲子園」(2日放送)でも取り上げられる。“白山の奇跡”から2年。果たせなかった約束を胸に、人生の次の一歩へ足を踏み出す。

(佐藤佑輔 / Yusuke Sato)

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