高木守道さんは「セオリーより本能の人」 弟分が語る“史上最高の二塁”と呼ばれる訳
ユニホームを脱げば面倒見のいい兄貴分「朝早くからヘラブナ釣りに…」
そんな球史に残る名選手も、ユニホームを脱げば面倒見のいい“兄貴分”だった。平野氏は14歳下ながら、私生活でもよく可愛がってもらった。「朝早くからヘラブナ釣りに呼ばれたこともありましたね。あれは、試合の日じゃなかったけな(笑)。本当にいろいろお世話になりましたね」。
2012年からの2年間は、中日の指揮を執った高木監督に外野守備走塁コーチとして呼んでもらい共に戦った。“瞬間湯沸かし器”と呼ばれた指揮官からカミナリが落ちたこともあった。それも、互いの性格をよく知っているからこそだった。「個人的にもいろいろ声を掛けてもらいました」と感謝に尽きない。
大先輩であり、兄貴分であり、指揮官であった高木さんが、今年1月に78歳でこの世を去った。3月に追悼試合とお別れの会が予定されていたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期に。7か月を経てようやく、10月10日にナゴヤドームで追悼試合が開かれた。中日は1-7で白星を届けることはできなかったが、選手らはみな「背番号1」をつけてプレーした。
高木さんが残した記憶や記録は薄れることはない。平野氏の脳裏にも、数々の思い出が生き続けている。ふと、そのひとつを思い出し、遠くを眺めながら言った。
「僕がプロ入り後に行きつけだった寿司屋の近くに守道さんが住んでて。亡くなられるまでずっとその店に通ってたみたいでね」
ほんの些細なことでも、今でもつながっていると思える。そんな瞬間を、これからも大事にしていく。
(小西亮 / Ryo Konishi)