「返事がない子もいた」 燕黄金時代の名手、名門の母校指導で感じた葛藤と喜び
飯田コーチの願い「できる子はできない子に『やろうぜ』と言ってほしい」
拓大紅陵時代の2学年下に当たる和田監督は投手、飯田氏は野手といった役割分担で練習は進められている。全員に共通している指導は野球を楽しくやることと、挨拶、礼儀、道具の管理など社会に出ても通用する人間力の形成だ。さらに、野球で上を目指す選手には練習内容の見直しや野球に対する取り組みの意識の改善、野球技術を伝えている。
「間違ったことをずっと練習することほど、意味のないものはありません。打撃に関しても、守備でも走塁でも、続けていてうまくならないのだったら、どこをどうしたらいいのか、変えないといけません。まずは自分で考えさせて、話をしにいく。僕の現役時代を知らない世代ですから、言うだけでなく、結果がついてくれば、僕のことを信用してくれるようにはなりますね」
外角球を打つことが苦手な選手に、腰の使い方を伝えると感覚を掴んだようで「これですね!」と目を輝かせながら、練習に取り組んでいたという。連動してヘッドスピードなどに変化が表れると、その後の練習試合で本塁打が飛び出したという。
「伝えたのはワンポイントです。あとは自分で考える。上手にできる子もいれば、できない子もいますから。なので、僕はできている生徒が、まだできていない子に『やろうぜ』と伝えていってほしいんです。何でもかんでも、監督やコーチの言うことを聞くのではなく、全員で輪になってね。野球は個人のスポーツではありません。同じ方向に進み、道を外しそうになったら注意できる仲間がいてほしい。僕はそういう姿を見ていきたいです」
もしも、勝つことが至上命題とされている監督だったら、このような思考になるのは難しいかもしれない。飯田氏は「僕は監督ではないから……」と非常勤のコーチの立場だからこそ言えることであることを前提にして、高校野球との向き合い方について語ってくれた。
今年はコロナ禍により、思うような練習や選手たちと触れ合いができなかったのは心残りだったが、すでに新チームを指導し、手応えも感じている。小枝守監督が作った基本に忠実で、人間力を育成する厳しい野球を礎に、元プロたちの指導で新しい風を吹かす――。名門が全国の舞台に戻ってくるのはそう遠くはないのかもしれない。
◇飯田哲也(いいだ・てつや)1968年5月18日、東京都出身。1986年春、夏の甲子園に出場。同年ドラフト4位でヤクルトに入団。野村克也監督に才能を見出され、捕手から内野、外野へとコンバート。1991年から7年連続でゴールデングラブ賞を受賞。1992年には盗塁王を獲得し日本一に貢献するなどヤクルト黄金期を支えた中堅手。引退後はヤクルト、昨年までソフトバンクでコーチを務め、現在は野球解説者と拓大紅陵の非常勤コーチ。
(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)