生の江川卓を見て躊躇ったプロ入り…セ界で唯一の「勝ち越せなかった最多勝投手」
内定企業から提示された生涯年俸は「現役中にクリアできた」
横浜DeNAベイスターズがかつて「横浜大洋ホエールズ」と称していた時代に、エースとして君臨した遠藤一彦氏。フォークボールを武器に、沢村賞1度、最多勝2度など輝かしい実績を築いた。1977年ドラフト会議で横浜大洋から3位指名された当時は「自分の力がプロで通用するなんて夢にも思わなかった」とも。プロ入りか就職かで悩んだと振り返る。
東海大時代の遠藤氏は180センチの長身に比べて体重はわずか60キロの華奢な体形。プロ2年目から投げ始めることになるフォークもまだなかった。同年代には、高校時代から「怪物」と呼ばれ、のちに巨人に入団する江川卓氏がいた。
「東海大3年の春に出場した全日本大学野球選手権の開会式で、初めて“生”の江川(当時法大)を見ましたが、お尻の大きさが半端なかった。体がでかくて、球が速い。ああいう投手でないとプロでは通用しないだろうと思いました」
ドラフトで指名された時には、既に社会人野球の名門でもある企業から内定をもらっていた。それだけに迷った。故郷の福島県西郷村に帰省して両親に相談しても結論は出ない。「企業で野球を続けても、7、8年後には引退しなければならない。その後、社業にやりがいを見出せるのだろうか――という不安がよぎりました」と明かす。最終的には、叔父の「同じ野球なら、プロで勝負したらどうだ?」との言葉に背中を押された。
内定企業に断りを入れる際には、人事課長から「ウチに入社すれば、これくらいの生涯年収を稼げるぞ」と金額を示されたという。一方、横浜大洋での1年目の年俸は300万円、自己最高年俸は14年目の7000万円(金額は推定)だったといわれる。「あの時に示された金額は、現役中にクリアすることができました」と笑う遠藤氏。その活躍に胸を躍らせたプロ野球ファンにとっても、この選択は大正解だった。
しかし、迷った挙句に飛び込んだプロの1年目の春季キャンプで、遠藤氏は当時の別当薫監督からサイドスロー転向を命じられた。「おまえの肘の使い方は良くないから、サイドにしろ」と問答無用。やむなくキャンプ中は、体の使い方をつかめないまま横から投げ続けた。