生の江川卓を見て躊躇ったプロ入り…セ界で唯一の「勝ち越せなかった最多勝投手」

ほぼ同時期に首位打者&最多セーブ&最多勝が揃っていても勝てない不思議

 キャンプを終えて2軍に合流すると、当時2軍投手コーチの堀本律雄氏には「何をやっているのだ」と驚かれた。事情を話すと、「おまえは上から放るタイプだから戻せ。別当監督には俺がうまく言っておく」と耳打ち。こうして本来のオーバースローに戻った遠藤氏は、2軍で実績を積み、シーズン後半に1軍昇格。フォークを覚えた2年目には、12勝を挙げてブレークした。

 落差の大きいフォークは、上から投げ下ろす投球フォームがあってこそ。もしサイドスローを続けていたら……。「2年くらいで現役を終えていたのではないでしょうか」と堀本氏には感謝し切れない。華奢だった体格も、堀本氏から「おまえは夕食の時、必ず缶ビールを1本持って食堂に入れ。食欲が増すから」と指示され、1年目を終える頃には72キロまで増量していた。

 関根潤三氏が監督を務めた83年には18勝、翌84年にも17勝を挙げ、2年連続で最多勝。ところが、84年のチームは最下位、遠藤氏も17勝17敗の5分と貯金を作れなかった。セ・リーグで勝ち越せなかった最多勝投手は、同年の遠藤氏ただ1人だ。しかも「16勝17敗でシーズン最終戦のヤクルト戦を迎え、なんとか勝って5分に持ち込んだ」。仮にこの試合で負けていれば、これまた前代未聞の「負け越した最多勝投手」となり、タイトルも16勝を挙げていた中日の鈴木孝政氏、広島の山根和夫氏と3人で分け合うところだった。

 結局、遠藤氏が在籍した15年間、横浜大洋は1度も優勝できず、Bクラス12度。「野武士集団」と呼ばれるほど個性派ぞろいで、味わい深い魅力を放っていたが、いかんせん勝てなかった。「本拠地を川崎から横浜へ移して、多少あか抜けたけれど、みんなが個性的で、うまく1つになれないまま終わった印象ですね」と振り返る。

「何しろ、ほぼ同時期に首位打者(1982年の長崎啓二氏)、最多セーブ(82、83年の斉藤明夫氏)、最多勝(83、84年の遠藤氏)がいても勝てなかった。歴代監督だって、別当さん、土井淳さん、関根さん、近藤貞雄さん、古葉竹識さん、須藤豊さんと経験豊かな方々が務められたのですが…」

 そう言って遠藤氏は懐かしそうに振り返る。「僕にとっては数多くのチャンスを与えてくれた、本当にいいチームでした」。ただ、15年間のプロ人生には、選手生命を脅かす大ケガもあった。

※8時43分、一部を加筆・修正しました。お詫びして訂正いたします。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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