幻となった日本ハムでの「背番号5」 チーム変えた“新庄劇場”…仕掛け人が語る真実

日本ハム・井出と巨人・入来のトレードが早期に決まっていれば…

 背番号1の誕生にも裏話があった。「交渉で希望を聞くと、お金のことはあまり言わず、こだわったのは背番号でした。5番が欲しいと。当時、井出(竜也)君が付けていたんですが、ちょうど巨人の入来(祐作)君とのトレードが内々で決まっていたので大丈夫だろうと思っていました。ただ、その後いろいろあって入団発表までにトレードが正式に決まらない。5番の次は何番がいいかと聞いて、1番になりました」。トレードの進捗状況によって阪神時代から慣れ親しんだ「5」は幻に終わったが、新たな背番号で光り輝き、巨人ファンの多かった北海道民を熱狂させた。

 新庄氏が契約交渉でもうひとつ要望したことは、補殺のインセンティブだったという。「過去に選手から補殺と言い出した例はなかったので、ちょっとビックリしました。よっぽど肩に自信があったんでしょう。補殺15だったかな。大変な数ですよ。必ず走ってくれたら、楽勝でいったと思うんですけど、途中からコーチャーがサードで止めてしまいましたからね」と懐かしそうに振り返る。

 入団が決まった後、新庄氏は登録名のローマ字表記を希望し、新庄シートの設置と札幌ドームへの個人広告の掲出を提案した。三澤氏は破格の申し出に、また驚いた。「センターの後ろ100席を自分でお金を出して招待しますと提案してくれました。広告の方は当時、札幌ドームにあまりなくて、センターに新庄の広告を一番先に吊るしたという感じでした」と感謝する。

 新庄効果は絶大だった。2004年の名護キャンプには大勢の人が詰めかけた。「記者は例年20人か30人でしたが、あの年は報道陣が100人とか150人来ました。ファンもそれまでは日曜日でも200~300人だったのが、平日なのに何千人。ファンから注目されている、ファンが大事だということを選手が意識するようになったのは、あの年からですね」と三澤氏。東京時代から状況が一変した、忘れられない光景を思い起こした。

(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)

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