佐々木朗、奥川ら“最強JAPAN”率いるも5位 猛批判を糧に甲子園へ帰ってきた名将
ネットに誹謗中傷、学校には苦情も「それほど日の丸を背負うには覚悟がいる。これも経験」
実際には選手選考については、高野連との兼ね合いもあり、自らの意見はほとんど通らなかった。投手の起用についても指揮官が思い描いたものではなかった。帰国してからネットに誹謗中傷、学校には何度も苦情が届いた。週刊誌には事実ではないゴシップも書かれる(後に謝罪文を掲載)など世間のイメージは名将から“迷将”に変わっていった。
それでも「負けたらこうなる世界。それほど日の丸を背負うには覚悟がいる。これも経験だ」と、言い訳は一切しない。メディアに名前が出る度に大バッシングを受けたが、野球への情熱は失わなかった。指導を離れ報徳学園の先生として、グラウンドを眺めるうちに「純粋に野球をもう一度、楽しみたい」と、再びユニホームを着る思いが高まった。
その後、縁もゆかりもなかった静岡・日大三島から誘いを受け監督に就任。関西とは違い“大人しい生徒”が多く、当初はそのギャップに戸惑ったという。報徳学園時代は厳しい言葉を投げかけても、喧嘩腰でガツガツくる選手が多かったが「少し喝を入れるとモチベーションが下がる子が多い。でも時代が変われば指導法も変わる。『今のプレーは何が悪かった?』と問いかけるような形ですね」と変化を口にする。