たった一人の打者だけに変えていた ダルビッシュ有、スパイク一足分の大きな勇気 【マイ・メジャー・ノート】第4回
元ヤンキース、デビット・コーン氏は肩の開きを抑えるために足場を変えて飛躍した
2012年4月9日。デビュー戦でダルビッシュ(当時レンジャーズ)はマリナーズ打線と対峙。制球を乱し4回で8点を奪われる。6回、イチローにヒットを打たれ、とどめを刺された。ダルビッシュは、オープン戦とは微妙に異なる――雰囲気もストライクゾーンもマウンドの固さも――見えない敵とも闘っていたはず。その苦しいマウンドで、中盤を迎えると突然、プレートの踏み位置を一塁側から真ん中へと移した。ゴロを打たせるのに効果的なツーシームの質を上げるため、春のキャンプでなじませてきた足場を動かしたのである。
後に、日ハム時代の投手コーチだった吉井理人氏は「試合の責任を背負わされている投手がデビュー戦でなかなかできることではない」と嘆息したという。重圧がかかる夢舞台の初陣で、白星を呼び込んだのは“スパイク一足分の大きな勇気”だった。
あの日、アーリントンの記者席から見た右足の修正は、ジャイアンツのマイケル・ヤストレムスキーに投じた8球とかくもつながっていた。
横幅24インチ(約61センチ)のプレートに置く軸足には投手それぞれの思惑がある。
元ヤンキースのエースで、今はニューヨークの地元中継局「YESネットワーク」の解説を務めるデビット・コーン氏は、20勝を挙げたメッツから移籍したブルージェイズでは、肩の開きを抑えるためにプレートの踏み位置を三塁側から一塁側へと変え、さらなる飛躍を目指した。「決断」の二文字を使って聞かせてくれたその体験談は今も響く。
右肘の靱帯損傷を克服し、日本人投手初の最多賞、メジャー最速の1500奪三振記録を足跡に刻んだダルビッシュ。酸いも甘いも噛みわけた彼が漏らすマウンドでの希少な“前向きなもがき”は、歓喜の雄叫びよりもしばしば貴重であると、僕は思う。
○著者プロフィール
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。シアトル在住。【マイ・メジャー・ノート】はファクトを曇りなく自由闊達につづる。観察と考察の断片が織りなす、木崎英夫の大リーグコラム。
(木崎英夫 / Hideo Kizaki)