「プロは契約してもらって初めてプロ」日本ハム・木田優夫2軍監督が説く“生存術”
なぜ1日だけ打たれまくった? 突き詰めると全く違うフォームに
なぜその日だけ調子が悪かったのか。試行錯誤を繰り返していると「腕がちょっと遅れた時に、ボールへ力が伝わりづらい」ことに気づいたのだという。生きたボールを投げるため、力のロスが少ない動きを考えた。いい動きを繰り返せるよう“再現性”を上げるため、肩や肘、腰、手首や足首と、関節の動きの“質”を高めようとした。気づけば腕の高さはどんどん下がり、若き日に日本で投げていた頃とは全く違う投球フォームになった。
「年を取って球が行かなくなったから、何か“ごまかす”ために腕を下げたと思っている人が多いんだけど、そうじゃない。骨格まで考えて、俺に合った動きを突き詰めたらあのフォームになったんだよ」
その2005年は開幕から3Aタコマで投げ、クローザーを務めた時期もあったが、メジャーでの登板は8月3日のデトロイトでのタイガース戦のたった1試合。ただこの試合をチームメートとして見ていた長谷川滋利投手が驚いたのだという。「キャンプで打たれた時とは全然違うフォームで投げているのを見て『ボールが戻っている』とね。これなら日本に戻っても行けるという話が古田(敦也)さんに伝わってね……」。
翌年、ヤクルトで日本球界に復帰し、中継ぎとして2年連続50試合登板を果たした。フォームの再現性が上がり、若い頃とは真逆の、制球力で勝負できる投球スタイルになっていた。さらに日本ハム、BCリーグの石川と現役生活は続いた。ついにグラブを置いたのは46歳を目前にした2014年のオフだ。まさに「自分がどうなりたいのか」を考えた末の、長い長い選手生活だった。
今は指導者として、若い選手を見守る立場だ。これからの時期、チーム事情で戦力外となる選手も出るが、プロ野球選手であり続けたいと願うなら決してそこが“終わり”ではない。「今は、一度独立リーグに行って活躍して、NPBに戻って来る選手もいる。オレが見てきた中では三家(和真=元広島、ロッテ)がそうだったね。メジャーにもマイナーから独立に行って、30過ぎでようやくメジャーデビューしたような選手もいる」。木田監督の野球人生には、考え、変わることでチャンスはつかめるという“教え”が詰まっている。
○著者プロフィール
羽鳥慶太(はとり・けいた)神奈川で生まれ、愛知、埼玉などで熱心にプロ野球を見て育つ。立大卒業後、書籍編集者を経て2001年、道新スポーツに入社。プロ野球日本ハムを長年担当したのをはじめ、WBCなどの国際大会、アマチュア野球、平昌冬季五輪なども取材する。2021年よりFull-Count編集部所属。
(羽鳥慶太 / Keita Hatori)