ビエイラら育成、ブラジル野球を変えた日本人 2度の夜逃げも…異国での壮絶人生

ブラジルヤクルトアカデミーの校長を務める佐藤允禧さん【写真:川村虎大】
ブラジルヤクルトアカデミーの校長を務める佐藤允禧さん【写真:川村虎大】

ブラジルで2度目の夜逃げ…野球がうまくなれば「街に出られる」

 ブラジル入国後も苦しい生活は続いた。日系人の地主に土地を借り、カイコを飼う養蚕にのりだした。しかし、当時の絹産業は衰退の一途。「6人兄弟で毎日働いてもお金が残らなかった。正式に移住していないから、隠れて仕事するしかない」。毎日、砕けた米とあたりに生えているタケノコやワラビで飢えをしのいだ。「とんでもない。こんなところおったらもっと貧乏になると思って」。トラックを雇って2度目の夜逃げ。当時、16歳だった。

 ちょうどその頃、ブラジルには日本の“野球”が伝わり始めていた。入植地では日系人の娯楽としてすでに存在していたが、移民50周年の1958年に石井連藏氏率いる早大がブラジル遠征を行った。さらに、豊和工業、カネボウなど、社会人チームの“野球移民”もやってきた。現地の人々も“本気の野球”を求めるようになった。

 佐藤さんもその一人。豊和工業の試合をラジオ放送で聞き「これ(野球)をやってうまくなったら街に出られるかな」と考えた。仕事をしながら、毎日500メートルの坂道ダッシュを繰り返し、自ら木を削って作ったバットでタイヤを叩き打撃練習に励んだ。東京五輪が行われた1964年にはついに野球連盟から声がかかり、本格的に野球を始めた。1966年には豊和工業に入団し、ブラジル選手権大会で13回の最優秀投手賞に輝く。のちに日本楽器(現ヤマハ)から1979年ドラフト外で阪急(現オリックス)に入団する弟・滋孝さんとともに活躍した。

 劣悪な環境で野球とは16歳まで無縁だったが、今考えるとすべてが野球につながっていた。鞍を着けない裸馬から落ちないようにすることで内転筋が鍛えられ、木の伐採では「同じ軌道に(斧を)入れないと(木が)ギザギザになってしまう」と打撃感覚を身に着けた。「ブラジルの(最初の)3年間はものすごくプラスになった。全てが野球をやる運命だった」。

帰化し国際大会にも出場、アカデミー校長になり、日本にも選手を送り出す

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