古葉監督も忘れていた挑戦 V旅行のコンペにバットを持参した“両打ちの首位打者”
「コーチが選手を育てたのではなく、選手がコーチを育ててくれる」
正田は食らいついて粘った末、ヒットにこそならなかったものの、レフトライナーを放った。首脳陣は口を揃えて「これはいける」と打撃内容を評価。正田のスイッチは“公認”となった。同時に二人三脚の練習の厳しさも増し、正田が手の不調を訴えても、バットと手をテーピングで強引に巻き付けて振らせたこともあった。
1986年は90試合出場で打率.288と着実に成長を示した。チームもリーグ制覇を果たし、オフにはハワイへ優勝旅行。正田はコンペに参加した際、クラブを入れるバッグにバットもしのばせた。内田氏は「私は見てないのですが、周りから聞きました。絶えず素振りをしないといけないと考えていたんでしょう。うれしかった」と回想する。
正田は1987年に初めて規定打席に到達。中日の落合博満、巨人の篠塚和典(当時は利夫)、中畑清と首位打者争いを繰り広げた。篠塚を1厘差で追った打席でバント安打を成功させて並び、.333でタイトルをつかんだ。ホームランなしでの首位打者も2リーグ制後初めて。さらに1988年には.340で2年連続、今度は単独で首位打者に輝いた。
「私も若いから熱意があり、どんどん指導をしていく中で、正田が一つ一つクリアしてくれた。今考えてみれば凄いこと。よくコーチが誰々を育てたなんて言うが、本当は育ててなんていません。選手がコーチを育ててくれるのです」。内田氏の名伯楽の歴史は正田から始まった。
(Full-Count編集部)