思わず「僕、右でも投げられます」 テスト合格で騒動に…前代未聞の“両投げ投手”

南海時代の近田豊年氏【写真:本人提供】
南海時代の近田豊年氏【写真:本人提供】

故郷は中学まで野球部なし…練習相手は“壁と太平洋”だった

 もっとも近田氏にとって、スイッチ投手としてのプロ入りは幼い頃からの夢でもあった。「小学校5年くらいの時、プロ野球中継を見て、子どもなりに疑問に思ったのが右でも左でも投げるピッチャーが1人もいないこと。いないなら、自分がなりたいと思ったんです」。なんとなくだが、自信もあった。すでに、その頃から右でも左でも普通に投げ込んでいたからだ。ただし、マウンドからの投球ではない。捕手もいない。投げる相手は壁と太平洋だった。

 高知県宿毛市沖の島出身。「全校生徒が10人くらいだったんで、野球部は中学までなかった。あるのは個人種目。卓球の試合に合わせて卓球、陸上の大会に合わせて陸上をやるような感じだった」。でも野球が好きだった。野球をやりたかった。そこで始めたのが“ひとり野球”。壁当てをしながら「1回表、投げました」のように試合を想定して遊んだ。「島なので、太平洋に向かって石を投げたりもしていました」。

 野球漫画「巨人の星」などに影響も受けた“魔球世代”。「毎日、同じことをやるとつまらないじゃないですか。それで右で投げたり、左で投げたりもしていたんです」。使用するボールは買ったわけではない。「島に流れ着いて来るんですよ。軟球とかが。それを20から30個くらいは持っていました」。1人でやっていたから右投げも左投げも練習できた。「中学まで野球チームに入ることもなかったので誰からも止められなかった。その環境も良かったんでしょうね」。

 高校は明徳(現在は明徳義塾)に進学した。3つ上に日本ハムや巨人などで活躍した左腕・河野博文氏がおり、当時から野球に力を入れていた学校に、中学まで実戦経験がないにもかかわらず特待生で入学できたという。いったい何があったのか。「めっちゃ、運が良かったんですよ」と近田氏は笑みを浮かべながら、その経緯を話しはじめた。

【実際の映像】左で右で…しなやかなフォームは57歳の今も健在 近田豊年氏が披露したスイッチ投球

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