投手・根尾の起用法は「考えられなかった」 “元エース”が危惧した昨季「ただの見せ物」

中日・根尾昂【写真:小林靖】
中日・根尾昂【写真:小林靖】

小松辰雄氏は星野2次政権で投手コーチ務めるも、1997年限りで退団

 狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームへ。1997年の本拠地移転によって中日の野球は変わった。強竜打線と恐れられ、1996年のチーム本塁打は179本でリーグ1位だったのが、リーグ4位の115本に激減。優勝したヤクルトから24ゲーム差の最下位に沈んだ。これを受け、オフにコーチ陣も刷新された。当時、1軍投手コーチだった小松辰雄氏も、この年限りでユニホームを脱いだ。「自分の思う通りにはやれなかった」。不完全燃焼のコーチ時代だった。

 小松氏は1994年に現役を引退し、1995年シーズンに2軍投手コーチに就任した。その年の1軍はシーズン前半で最下位に低迷し、6月3日に高木守道監督が休養。監督代行になった徳武定祐ヘッドコーチも解任され、球宴明けの7月29日からは島野育夫2軍監督が監督代行の代行を務める泥沼的状態に陥った。“島野体制”になって、小松氏も1軍投手コーチに異動となった。

 オフには星野仙一氏が監督に復帰した。闘将は口癖のようにコーチ陣に「何とかせぇ!」を連発。小松氏はしょっちゅう怒られていたという。「あれやらせぇ、これやらせぇってね。全部そうだった」。指揮官からの注文は、選手に言いにくいこともあったらしい。「選手からあがったばかりで、それは言えんもん」。現役時代はチームリーダーとして、選手側に立っていろいろ動いてきただけに、コーチになった途端、手のひらを返すようなことはしたくなかった。

 屈辱の最下位に終わったナゴヤドーム元年。「コーチも責任取ってやめろってことになった」。入団以来、中日一筋。初めてユニホームを脱ぐことになったが、監督、コーチ人事の巡り合わせも悪く、以降は野球評論家として古巣を見つめ続けている。「中日は今年も打線がどうかだけど、新外国人のアキーノが結構面白そうかな。ビシエドが3番で、彼が4番を打てばね」。

立浪監督に注文「ある程度、コーチに任せればいいと思う」

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