全力で投げても本塁届かず… 「何の思い入れもない」背番号変更で狂ったドラ1の“運命”
近藤真市氏は2年目の1988年、背番号が「13」から「1」に変更された
背番号「13」は元中日投手の近藤真市氏にとって栄光のナンバーだった。1987年8月9日の巨人戦(ナゴヤ球場)で日本プロ野球史上初の快挙、1軍公式戦初登板ノーヒットノーランを達成した時に背負っていた番号だ。中日入団時に「13」の他に「14」の可能性もあったが、占いで「13」の方がいいと言われて選択したという。だが、プロ2年目の1988年シーズンから、背番号は「1」に変わった。その年のこと。まさかの事態に見舞われた。
背番号「1」への変更は希望したわけでもなんでもなかった。「マスコミの人に1になるらしいぞって教えてもらって初めて知りましたからね」。1987年オフに中日・平野謙外野手との交換トレードで西武から小野和幸投手が加入。西武時代と同じ「13」を希望したため、変わった。それまで「1」は享栄の先輩でもある藤王康晴外野手がつけていたが、もう一度ゼロからスタートしたいということで背番号「0」となり、空いた「1」が近藤氏に回ってきた。
中日の「1」はかつて高木守道氏がつけていた伝統ある番号。球団も良かれと思ってのことだったのだろう。だが、現在、岐阜聖徳学園大学の硬式野球部で監督を務める近藤氏は「守道さんとか、1番をつけられておられた方には申し訳ないですけど、何の思い入れもないです。ピッチャーの1番は僕はうれしくなかった。その時(1986年ドラフト3位で同期入団の)西村(英嗣投手)が24番になったんですけど『お前、いいな』って言いましたもん」と振り返る。たかが背番号ではない。「だって自分の顔みたいなものですから」。
その年から、なぜか良くないことが起き始めた。米フロリダ州のベロビーチキャンプではドジャースとのオープン戦に先発したが、満塁ホームランを許すなど3回8失点でKOされた。「(ドジャース監督だった)ラソーダさんが、あの1番を先発させてくれって言って、僕が投げたんです。でも打ち取れるわけがなかったですよ、メジャーリーガーを。(中日監督の)星野(仙一)さんには『何やってんだ!お前!』ってめちゃくちゃ怒られましたけどね」。