無人のマウンド「行く気力なかった」 温和な指揮官が激変…「泣きべそかいた」続投劇

中日時代の鈴木孝政氏【写真:共同通信社】
中日時代の鈴木孝政氏【写真:共同通信社】

9回登板も逆転食らう…追いついた10回のマウンドが無人になった

 中日の快速球投手・鈴木孝政氏(現中日OB会長)の名前が一層とどろいたのが1975年の3年目シーズンだ。シーズン序盤に抑えに回って、67登板で9勝8敗21セーブ。チームは2位に終わったが、最多セーブ投手のタイトルを獲得した。そんな飛躍の年には、クローザーとしての気持ちが高まった日がある。この出来事も決して忘れない。愛称はウォーリー。与那嶺要監督に食らったパンチ2発の思い出だ。

 1975年9月7日のヤクルト戦(中日球場)でのことだった。1-0の9回途中から、好投の先発・三沢淳投手をリリーフした。その日までに鈴木氏は14セーブをマーク。中日の新守護神として結果も出しており、ベンチも当然15セーブ目を期待していた。ところが、ヤクルトの助っ人4番打者、ロジャー・レポーズ外野手に痛恨の逆転2ランを被弾。「マウンドで膝をついて立ち上がれなかった」という。

「サードの島谷(金二)さんがマウンドに来て『どうしたんや、こんなこと、ようあるぞ』って起こしてくれた。『頑張れ、頑張れ』ってね」。何とか後続を断ったが、ベンチに戻っても21歳のクローザーはうなだれるだけだった。「三沢さんに申し訳なかった」。そんな中、中日は9回裏に同点とし、試合は延長戦に突入した。10回表のヤクルトの攻撃。中日野手陣が守りにつく。だが、マウンドだけは無人だった。続投の鈴木氏はまだベンチにいた。

 逆転を許したショックがあまりにも大きく「行かなかったというか、行けなかった。行く気力がなかった」。そこでパンチを食らった。「ウォーリーに2発。カンカンって。『お前が行かなくて誰が行くんだ!』ってね。日本語だったよね」。

与那嶺監督から「お前が投げて負けたなら、みんなが納得する」

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