驚きドラフト指名の日系人に眠る「糸井嘉男級のポテンシャル」 山口アタルが挑む「限界」
ゲーム小僧が仕方なく野球を…今も続ける理由「自分の限界はどこなのか」
少年時代の山口は、とにかくゲームが大好きだった。「ポケモンとか、24時間やっていられたくらい」と言うほどだ。8歳の時、ゲーム仲間だった子の母親がこれではいけないと、スポーツをさせることにした。遊び仲間がいなくなった山口も、仕方なく野球やサッカーのチームに入り、続いたのが野球だった。日本人の父が「野球は頑張ってプロになれば、フェラーリに乗れるんだぞ」と言ったからだ。「お父さんの言ったことだから、信じてましたよ」。いつしか、野球が大好きになっていった。
カナダ西部のバンクーバー出身。周りは、国技のアイスホッケーをしている子ばかり。山口にとってのホッケーは「遊びで高校の時にはやっていたけど、怪我が多いし、スケートがヘタクソで……。うまい子は6歳とかからやっているし、朝5時から練習とか。それが嫌だった」という記憶だ。カナダでは複数の競技に取り組むのが当たり前で、リトルリーグの練習も週1回しかなかった。そんな時に父が見せてくれたのが、甲子園のハイライト映像だった。「日本人はこんなにやってるんだ、って。カナダ人は練習嫌い。手を抜いちゃうから、これを見ろって」。高校生の時には、甲子園に足を運んだこともある。
ブリタニア高までは投打二刀流。コルビー短大から投手に専念した。「打撃がヘタクソ」だったからだ。「足がものすごく遅くて、チームでも下の方だった。体もブヨブヨで、これは無理だと思って」肉体改造に精を出した。体重が20キロ増え、筋肉も見違えるほど大きくなった。
ただ、米国の大学に進学すると今度は「ピッチングがひどすぎた」。肘を痛めて手術し、2シーズンも試合に投げられなかった。「コントロールがばらついて、球も速くなかった。でもこの5年間で体づくりはできたので、バッターで……」と考え、父の国、日本の各球団に自身をメールで売り込んだ。ウェブサイトのお問い合わせアドレスに、プレー動画を送りつけた。返事があったのは3球団。その後テストを受けるなどして縁がつながり、日本ハムの指名を受けた。そこまでして、プロを目指した動機はどこにあったのか。
「野球は好きだし、どこまで行けるのかを試したかった。途中であきらめたら、人間としてのポテンシャルがわからない。自分の限界がどこなのか、試してみたかった。『投手がダメだったから野球をやめた』だと、ずっと『もしかしたら……』って思っちゃう」