海外で消えた“家賃10か月分” 難病経験した元巨人左腕…国境越えて野球振興に懸ける今

東南アジアでの野球振興について熱く語る元巨人・柴田章吾さん【写真:小林靖】
東南アジアでの野球振興について熱く語る元巨人・柴田章吾さん【写真:小林靖】

九州アジア独立リーグもインドネシアから野球の国際化を目指している

 リスタートをするにしても、まずは生活の基盤を整えないといけない。柴田氏は事業方針を一変し、企業向けのコンサルティング事業をメインに置き換え、昼夜問わず仕事に没頭した。クライアント数も徐々に増え、収益を伸ばし、仕事を任せられる部下もできてきた。3年間で売り上げは当初の20倍となるほど、軌道に乗った。

 ただ「だんだんと我慢ができなくなってしまって……」。抑えてきた感情が再び沸き起こってきた。企業コンサルの仕事は充実していた。それは今でも変わらない。出会う人々、皆、温かった。東南アジアに野球振興する夢を応援してくれる人もいた。自分の気持ちに蓋をせず、昨年4月頃「もう一度、頑張ってみよう」と海外に出ていくことを決めた。

 なぜ、そこまでして東南アジアの子どもたちに思いを抱くのか――。柴田氏は「会社として利益を上げることを考えるとコンサルティング事業に注力し、クライアントを増やす方が近道だと思います。でも、そこには夢がある。僕は順風満帆に野球をしてきたわけではなく、病気で死にそうになったこともあります。その経験を生かして、野球の魅力を伝えられると思っていますし、それは僕しかできないことじゃないかなって」

 野球をやりたくてもできない人がいる。夢や希望を持てる環境下にいない子どもがいることを忘れてはいけない。国指定の難病と闘い続けた柴田氏の野球人生だった。ベーチェット病の症状で腹痛や嘔吐、練習中に倒れることもあった。医師からも野球を続けるのは難しいと言われ、断念しかけたことも。愛知の強豪・愛工大名電に進んでも、仲間と一緒に練習できない自分を悔やんだ時期もあった。

 それでも恩師である愛工大名電・倉野光生監督や仲間の支えもあり、最後の夏は甲子園にも出場するまで復調し、憧れのマウンドにも立った。明大に進んだあとも病気と闘ったが、2011年のドラフト会議で巨人に育成3位で指名された。体との闘いだったが、プロになる夢を叶えた。東南アジアの国々にはまだまだ恵まれない環境下にいる子どもたちがいる。「野球を通じて目標が生まれ、わくわくしながら夢を追いかけてほしい。僕が行くことでそういう子が増えていくといいですね」と願う。

 6月9日、10日にはフィリピン・マニラで野球イベントを行い、2024年からは舞台をインドネシアにも移すことも視野に入れている。人口世界第4位(約2億8000万人)のインドネシアで野球を広められれば、大きな輪になる。飛行機を使えば1、2時間でシンガポールなどの近隣国にも移動できるため、さらなる広がりを見せ、野球の国際化につながっていく。

 5月29日にはインドネシア代表メンバーを主体とした新球団が発足し、九州アジア独立リーグに参加登録をしたというニュースがあった。これから日本のプロ野球との関わりが増え、同国の野球は熱を帯びていくだろう。マニラでの野球イベントの次の目標は、2024年8月にジャカルタで30を超える州別の対抗の高校野球、インドネシア版の“甲子園大会”を実施すること。ずっと野球を諦めず、続けてきた柴田氏ならば、夢物語では終わることはないだろう。そう思わせる力強い言葉だった。

(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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