球団フロントを一喝「給料を上げてやれ」 日陰の扱いが今や…闘将が変えた“救援”の評価

中日監督時代の星野仙一氏【写真:共同通信】
中日監督時代の星野仙一氏【写真:共同通信】

鹿島忠氏は星野中日1年目の1987年途中から中継ぎに回った

 昔は中継ぎ投手の立場は決して良くなかった。中継ぎに回ると「降格」と言われるなど、先発、抑えよりも明らかに格下という感じだった。野球評論家の鹿島忠氏は元中日の中継ぎエース。だが、当時でもその役割に就くことに全く抵抗はなかったという。むしろ誇りを持って取り組み「何が何でも先発に戻りたいって気持ちもなかったね」。やりがいがあった。目標があったからだ。その裏には中日・星野仙一監督のバックアップが大きく関係していた。

 現在のオールスターファン投票には中継ぎ部門がある。リリーフ投手を評価するホールドもある。今ではすっかり当たり前のことだが、鹿島氏が先発からリリーフに配置転換となった1987年はいずれもなかった。その上、ハードな仕事だった。「今みたいに1イニング限定みたいなものなんて、あるわけなかった。(打たれなかったら)自分に打順が回ってくるまでオートマチックでマウンドに行っていたからね」。

 リリーフが回をまたいで登板するケースが少なくなった現在とはまるで違う。当時のリリーフは「回またぎ」なんて当たり前だった。そもそも、その部分に注目が集まってなかったので「回またぎ」なんて用語もほとんど使われていなかった。

 鹿島氏も「契約更改にいったら、まず今年何勝したって言われた。何試合投げたじゃなかったもんね。何勝した? 2勝? 3勝? じゃあ給料上げれんねって感じの時代だったよね」と明かす。でも、中日ではある時から変わったという。

「俺が中継ぎ(専門)になった時から、球団はちゃんと評価してくれるようになった。仙さんが中継ぎのこともちゃんと見ていてくれて、給料面でも上げてやれって(球団フロントに)言ってくれたんだよ。仙さんが評価してくれたから、俺はやり続けられたと思っている」

元中日・鹿島忠氏【写真:山口真司】
元中日・鹿島忠氏【写真:山口真司】

中継ぎのポジションを「確立させようと思っていた」

 星野仙一氏が監督に就任した1987年シーズンから、中日では中継ぎ投手への評価が変わった。そのタイミングでリリーフに完全転向した鹿島氏にしてみれば、ありがたい話であり、やりがいにつながったのだ。

 1988年、星野中日はセ・リーグ優勝を成し遂げた。鹿島氏は中継ぎのエース格として44登板で3勝2敗、防御率3.67の成績を残した。1勝4敗で終わった西武との日本シリーズにも第1戦(2回無失点)、第3戦(2回1/3、無失点)、第5戦(3回2/3、1失点)の3試合に登板し、いずれも好投した。「その年の契約更改交渉でも評価してくれましたよ。以前だったら3勝か、って言われるだけだったでしょうけどね」。

 現在は、昔に比べれば、かなり中継ぎ投手の立場は上がっている。登板しなくても肩の準備が必要な激務への配慮も増えた。1イニング中心、回またぎはできるだけ避ける。3連投はさせない傾向も出てきている。もちろん、年俸評価の面でも……。

 鹿島氏は現役時代を振り返りながら、こう話した。「あの頃の俺は中継ぎのポジションを確立させようと思っていた。できたら、ここで(年俸)1億円って思いながら、やっていたよ。最終的には1億円には届かなかったけど、8000万くらいまではいったし、ある意味、確立できたんじゃないかなって自負しているんだけどね」。そして今は亡き恩師のことを思い浮かべ「仙さんには感謝、感謝ですよ」とつぶやいた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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