入部3か月で後悔「間違いなく失敗」 壮絶だったPL野球部…15歳で築いた“土台”

1985年の夏の甲子園、劇的サヨナラ勝利で優勝を決めたPL学園(背番号4が松山コーチ)【写真:共同通信社】
1985年の夏の甲子園、劇的サヨナラ勝利で優勝を決めたPL学園(背番号4が松山コーチ)【写真:共同通信社】

「KKコンビ」世代の主将を務めたソフトバンクの松山秀明コーチが回顧

 昭和から平成の高校野球を彩った超名門高校の話だ。清原和博に桑田真澄、松井稼頭央、福留孝介……。数々のスーパースターを輩出したのが、大阪のPL学園だ。ソフトバンクの松山秀明内野守備走塁コーチは、清原&桑田の“KKコンビ”の同級生で、3年時にはキャプテンを務めた。「あの経験があったから今もユニホームを着られている」という青春の3年間を振り返る。

 PL学園は春3度、夏4度の甲子園優勝を誇る。特に清原、桑田を擁した世代は甲子園に5季連続出場。特に夏の甲子園では優勝2度、準優勝1度と圧倒的な強さを誇った。チームを牽引した2大スターについて、松山コーチは「清原は本当にすごかったので。桑田は僕らみたいな体型で、そんなにすごさは感じなかったですね。甲子園に行ってからすごくなりましたけど、恵まれた体格でもなくて、目立つ選手ではなかった」と、当時の第一印象を語る。

 1983年夏、日本一の原動力となった1年生の“KKコンビ”を、ベンチ外メンバーとしてスタンドから見ていた。「みんなそうだと思いますけど、面白くなかったですよ。応援なんかしているやつはいなかったと思う」。PL学園に入学したのは、レギュラーとなり、日本一になるため。「高校生の割にはプロ意識というか、ライバル意識の強い学校だった」と話すのも、屈指の強豪ならではだった。

 なぜ、名門の一員となったのか。入学前年の1982年、PL学園が正捕手の森浩之(現ソフトバンクヘッドコーチ)らを中心に春の選抜を制したのは知っていたが「憧れとかはあんまりなかった」。中学3年になった当初は、他の高校に行く予定だった。そんな時、PL学園の練習を見学に行った。「直感的に、です。『PLや』って。あまり深く考えず、即決で」と門を叩いた。

「グラウンドに行って、ここでやりたいって思っただけです。自分の気持ちを進んできただけです」

ソフトバンク・松山秀明1軍内野守備走塁コーチ【写真:藤浦一都】
ソフトバンク・松山秀明1軍内野守備走塁コーチ【写真:藤浦一都】

厳しい環境に耐えた日々「15歳の経験が、今の土台になっている」

 自らの直感を、すぐに悔やんだ。「入って2、3か月で間違いなく失敗したと思いました。100%後悔しました」という。各地方から集められた世代屈指の同級生に加え、先輩たちの実力ももちろんすごかった。「レギュラーになれないってまず思いました。みんな上手いし、こんな厳しい高校でレギュラーになれなかったら最悪だって。僕の予想していた100倍厳しかった」。和歌山の田舎から飛び込んだ環境は、想像を遥かに超えていた。

 野球部には“付き人”という制度があった。上級生の身の回りの世話を下級生がする。「1年生はお風呂でシャンプー禁止、(お風呂で)椅子に座るのも禁止、お茶は禁止、新聞もテレビも禁止、間食も禁止。だから世の中のことは全くわからない」。先輩のユニホームを乾かすために、ドライヤーなど“あの手この手”を使って毎日を過ごしていた。

「ユニホームに付いた甲子園の土が落ちなくて、お湯で洗濯した後に擦って。『PL』の文字の銀縁が外れて先輩に怒られた、とか。夜中に洗濯を3回して泥を落としたとか。僕らはそうしていましたね、1年生の時は」

 令和の世では考えられない日々だったのは、よくわかっている。「多分もう(1年生をもう一度っていうのは)できないです。子どもだったからできた。15歳だったから。それがハタチとか25歳になったら無理ですよね。子どもだから何も知らずに耐えられるっていうのがあったし」。ただ野球が上手くなりたい球児は、とにかく現実と向き合うほかなかった。のちに主将を務めることになるが「遥かに下級生の方が大変でした。みんな『5億、10億もらっても1年生はやらない』っていうからね。(自分も)嫌ですね」と笑う。

 ただ、こうも言う。「あの15歳の経験が、今の僕らの土台になっているのは事実です。あの経験があったから、今もユニホームを着られていると思っているので」。今思えば解せないルールも多かったが「理不尽だとしても、それは自分でプラスに変えられる」。厳しい日々を乗り越えたからこそ、未来は開けた。

(竹村岳 / Gaku Takemura)

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