広島の2大スターと形成した強力トリオ 3番打者が至った境地「僕が失敗しても…」

元広島・長内孝氏【写真:共同通信社】
元広島・長内孝氏【写真:共同通信社】

元広島の長内孝氏は山本浩二氏&衣笠祥雄氏の前、3番を打つことが多かった

 かつて、ミスター赤ヘル・山本浩二外野手、鉄人・衣笠祥雄内野手と広島のクリーンアップを形成したのが長内孝氏だ。現在は「本格派 炭焼やきとり処 カープ鳥 おさない」(広島市に2店舗)のオーナーであり、野球評論家であり、MSH医療専門学校硬式野球部の総合コーチも務めている。現役時代はパワフルな勝負強い打撃でカープの優勝にも貢献し、引退後は指導者として新井貴浩内野手(現広島監督)らを育成した。そんな長内氏に野球人生の思い出話を聞いた。

「3番長内、4番山本浩、5番衣笠」。長内氏は広島が誇るスーパースター2人との、この並びを何度も経験したが、緊張感については「特になかったですね」と話す。「それよりも楽だった方が大きいです。とにかく楽だったというのが第1印象。チャンスで僕が失敗しても(走者を)返してくれる安心感がありましたから。自分がそんなに責任を負わなくてもいいって感じでしたからね」。後ろに大打者2人が控えていることで、むしろ精神的に余裕があったというのだ。

「例えばノーアウト二塁だったとするじゃないですか。そしたら僕がファーストゴロを打っても1死三塁。それを浩二さんがことごとく返してくれるんですよ。だから楽だったんです」。それだけではない。長内氏はこう付け加えた。「1番が高橋慶彦さんでしょ、2番が山崎(隆造)でしょ。2人が出て無死一、二塁になったら100%バントだったし、少々強いバントでも足が速いからセーフになってくれる。それも楽でしたよ」。

 長内氏は1975年ドラフト会議で広島に3位指名されて桐蔭学園から入団した。走攻守3拍子揃った外野手として将来性を高く評価されたが、下積みは長かった。4年目までは2軍暮らし、5年目に初出場を果たし、6年目にプロ初安打をマークした。1軍に定着しはじめたのは7年目。117試合に出場し、18本塁打をマークするなど、飛躍したのは8年目だった。その間、猛烈な練習量をこなした。努力が実を結んでカープの主力選手になった。いぶし銀の活躍が光った。

現在は広島市の飲食店でオーナーも務める長内孝氏【写真:山口真司】
現在は広島市の飲食店でオーナーも務める長内孝氏【写真:山口真司】

1984年日本Sで日本一のウイニングボールを手にするも…投手に「渡しちゃった」

 気は優しくて力持ち。努力の人でもあり、謙虚な人でもある。1984年、広島はリーグ優勝を成し遂げ、阪急との日本シリーズも4勝3敗で制した。3勝3敗で迎えた第7戦(広島市民球場)でウイニングボールをつかんだのが当時、一塁を守っていた長内氏だ。7-2の9回2死、阪急の代打・石嶺は遊ゴロ。ショート・高橋慶からの送球をつかんでゲームセットだった。ただし、記念のボールは持っていないという。

「手にはしたんだけどね。自分でもらっておけばよかったのに、そういうボールは勝ち投手に上げるものだと思って(完投勝利の)山根(和夫)さんに渡しちゃったんだよねぇ。今、考えたらバカじゃなぁって思うけどね」。長内氏は苦笑しながら、振り返ったが、これも、らしい話とはいえるのだろう。

 1989年4月8日、広島・山本浩二監督1年目の開幕戦(対阪神、広島市民)で4番に指名されたのも長内氏だった。3番はロードン、5番はアレン。今度は重圧のかかる責任あるポジションだったが、開幕2連戦をいずれも4打数2安打1打点と結果も出して、山本監督の期待に見事に応えている。もっとも、これに関しても「あれはね、小早川(毅彦)が怪我かなんかして、出られなくなったから、僕が出ただけだったんですよねぇ……」。優しい表情で回顧した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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