黒田博樹氏がメジャーで示した「男気」 ドライな移籍に違和感…貫いた“チーム愛”

ドジャースで活躍した黒田博樹氏【写真:Getty Images】
ドジャースで活躍した黒田博樹氏【写真:Getty Images】

2011年夏に行使したトレード拒否権「違和感があったんです」

 2016年を最後にユニホームを脱いだ黒田博樹氏は、広島、ドジャース、ヤンキースの3球団で20年のプロ生活を送った。そのうちメジャーを主戦場とした7年は、大きな気付きと新たな視点を与えてくれたという。黒田氏の米国期にスポットを当てた連載(全5回)の第2回は「価値観の違い」について。

「プロ野球ではトータル20年間やったけど、あのままずっと日本で、ずっと広島にいたら、41歳までああいうパフォーマンスをするのは難しかったんじゃないかと、自分で思い返してみて、そう思うんですよ。ドジャース、ヤンキースで色々な環境を体験できたからこそ、あの年齢までなんとか勝負ができたんじゃないかと」

 メジャーでは、プロとしての基礎を作った広島とは違う価値観に多く触れた。その中でも、特に大きな差を感じたのが「チームへの愛着」だった。

「メジャーで難しかったのは、トレードやFAであれだけ頻繁に選手が移動するので、なかなかチームとしての結束力を感じられなかったことですね。もちろんプレーオフの時なんか結束力があるように見えるけど、終わって1か月もすれば仲間だった人が急に敵のチームに行ってしまう。そういう切り替えが僕の中ではちょっと難しくて、(自分には)あり得ないだろうな、と思っていました」

 その難しさのど真ん中に身を置いたことがある。ドジャースで4年目だった2011年。チームは前半戦を終えて41勝50敗と大きく負け越し、リーグ4位に低迷していた。一方、黒田氏は18試合で6勝10敗、防御率3.06と勝ち星こそ伸びなかったが奮闘。7月31日のトレード期限を前にプレーオフ進出を目指す複数球団からトレードを打診されたが、黒田氏は拒否権を行使してドジャースに残った。

「実際にトレードの話はありました。ただ、僕自身がその時、トレードに対して違和感があったんです。もちろん日本でもメジャーでも優勝して初めて、そのシーズンは成功となる。でも、メジャーではその過程をあまり気にしないというか。トレードされて強いチームに行っても、3か月間しかそのユニホームを着ないのに、それで満足できるのかどうか。メジャーでは普通かもしれないけど、僕の感覚では想像がつかなくて違和感がありました」

貫いた自身の価値観「それでモチベーションが上がるのか」

 メジャーで移籍は日常茶飯事。長いキャリアを1球団で終えることこそ稀だ。チームは将来を見据えた戦略の一環として、実績のあるベテラン選手と若手有望選手のトレードを画策し、優勝するためにはシーズン中でも選手を入れ替えることは厭わない。選手もまた、好契約を勝ち取るために活躍の場を求め、移籍には前向きだ。両者にとって野球はビジネスの色が濃い。

「どこかでドライにならないといけないとは思っていたけど、それで自分のモチベーションが上がるのかという疑問もありました。チームに対しての“気持ち”は大事だと思っていたので。だから、なかなかトレードで動く気持ちにはならなかったですね」

 多分『優勝争いするチームで評価されれば次の大きな契約を勝ち取るチャンスなのに、なんで動かないんだ?』と批判めいた意見もたくさんあったと思います。でも、動いたことで自分のモチベーションをどこまで保てるか。メジャーでは優勝争いをしないとモチベーションが上がらないっていう選手が大半だし、それも正解だと思います。でも、僕はキャンプからずっと一緒にやってきたメンバーと戦い抜く方が仲間意識を持てたんです」

 広島を離れてメジャーに移籍してもその色に染まり過ぎず、不器用と思われるかもしれないが自分を形作る軸は崩さない。トレードを巡る一件は、黒田氏らしさの表れだった。

 一方、チームに愛着を持ってマウンドに立つ献身的な姿が、米国メディアやファンの琴線に触れたこともある。その一つがドジャース3年目の2010年6月15日、敵地でのレッズ戦だった。

 雷雨警報が発令された悪条件で先発するも、上空に稲妻が走る中で快投を披露。豪雨のため試合は5回表途中で一時中断となったが、4回を投げて1安打7奪三振無失点。2時間24分後に試合が再開した時、誰もが投手交代を信じて疑わなかったが、マウンドに上がったのは黒田氏だった。6回に代打を送られて降板したが見事、チームは勝利。6勝目を飾っても「本音を言えばもう少し投げたかった」と言った右腕に対し、米記者たちは「ここまでチームを想う選手がいるのか」と驚きの声をあげた。

しんどかった「積み重ね」の毎日

 当の本人は「そう思われている感覚は全然なかった」と少し意外な様子だったが、毎回懸命に腕を振ったマウンドではチームへの想いとは別の想いも抱いていたという。

「チームのためにという想いと、僕自身はピッチャーとして、日本から今後メジャーに来る選手にとってマイナスになるようなことはしたくないという想いが強かった。次の世代のためにできることをしていかなければいけない。ネガティブな印象を持たれるようなことは絶対にしたくない。そこは常に考えていました。それが僕らの責任かなって」

 黒田氏はメジャーで「30先発、投球回200イニング以上」を1つの指標に掲げていたが、これもまた、自分の後に続く未来の日本人メジャー投手たちを意識したものだったという。当時メジャーでは日本人投手の故障・戦線離脱が相次ぎ、“日本人=壊れやすい”というイメージが定着しつつあった。「日本人として、そこを覆していきたいというのがあった。僕にはそれしかアピールするところがなかったのかもしれないですけど」と言葉を続ける。

「エースと呼ばれるピッチャーは30先発・200イニングが指標として入ってくる。僕はエースとは違いましたけど、そこはすごく意識しました。もちろん人間なんで、シーズンの中に波があってしんどい時もある。でも、状態が良くないからとローテを1回飛ばすと、結局はそれを繰り返してしまう。どこか自分でバランスを取りながら、少し割り切ってマウンドに上がる。1回1回この繰り返し、積み重ねでした」

「積み重ね」と簡単に言うが、途切れることなく継続することこそ難しい。黒田氏は「いやぁ~しんどかったですね」と苦笑いしながら、黙々と先発し続けた日々を振り返る。

「体のコンディションが整わないとメンタルも整わない。そこは一番大事にしていました。ただ、体の状態もピッチングの調子も100%に整うことは少ないので、80%の状態でもどれだけ試合を作れるかを意識しながら、一試合一試合その積み重ね。中4、5日のローテーションで時差がある中、35歳を超えたあたりから毎年体の状態が変わってくるのを感じる。その衰えをある程度は受け入れながら、変化を恐れずに調整していくのは、やっぱりしんどかったですよ」

 メジャー通算79勝79敗、防御率は3.07から3.76、WHIPは1.14から1.22を推移するなど、抜群の安定感が光る7年だった。一見すると何の変哲もなく映るかもしれないが、この変化の少ない数字こそが「積み重ね」の結晶であり、黒田氏の勲章でもある。

(佐藤直子 / Naoko Sato)

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